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【9/24更新】一個人的な舞台「夏の夜の夢」の解釈

舞台「夏の夜の夢」
9月11日昼公演・9月23日夜公演の
計2回を観劇しました。

SixTONESの高地優吾くんが出演するということで足を運んだ舞台だったのですが、あまりにも作品として素敵だったので、ブログをしたためることにしました。

これまで複数の舞台を観劇してきましたが、舞台は非言語で演出されているところも多くあるのだと感じています。
今回購入したパンフレットにも「観客の想像力」について言及されていますが、以下に記述する内容はあくまで私の想像・解釈にすぎません。
答え合わせをできるものでもないと思いながら書いていますが、自分自身の解釈の整理のための備忘録のようなものであることをご承知おきください。

それにしたって本当にすごかった…。
喜劇だなんて謳われてるから(事実、原作は喜劇)気軽な気持ちで行ったら、いい意味で後頭部をぶん殴られて帰ってきました。
髙地くんの演技もすーっごく素敵で、もう大好きだ!!!の思いでいっぱいなのですが、その辺はまた違うタイミングや媒体で書き記したいと思います。

以下は原作履修済み、シェイクスピアの「夏の夜の夢」に関しての解説書もある程度読んだ上で観劇した女の解釈です。

内容としては主に
・物語の構造・主題
・登場人物について
・舞台設定
あたりに触れているかなぁと思います。

当然のようにネタバレしかありません。
これから観劇予定の方はご注意ください。




【夏の夜の夢】

そもそも「夏の夜の夢」って、今回の舞台名であり、シェイクスピア原作の戯曲なんだけど、あえて定義付けるとしたら
「儚く、夢のようにぱっと消えてしまうまやかしの時間」
ということだと思っています。

シェイクスピアの原作では森での出来事が夏の夜の夢。
でも今回の舞台では、それだけじゃない気がしました。初見の印象では以下の3つ。

①森での一晩の出来事(原作通り)
②パック役の少年が瞬足の妖精として駆け回る脚を得ている時間
③我ら観客が過ごした舞台観劇の時間

これが、この後続く劇中劇の解釈とか、各シーンの解釈の根底にあるから、まず初めに叙述しました。


【OP、EDから見る劇中劇構造】

私にとって観劇初日だった日、正直、俳優陣が亡霊のようにそぞろ歩きで入場してくる場面にギョッとしました。
なにあれ、原作にそんなところなかったよ!?
2回目は来るぞくるぞ…と身構えながら髙地くんを目で追う()

パンフレットを読んで分かったのは、あれこそ劇中劇の1番外側のところを担う場面ということ。
あれは蓑を着て神(または奇々怪界)の依り身となり
「舞台上に作られた板の上の演技を観る」
という劇中劇だったのだろうなぁと。
例えば、蓑を着ている時間に髙地優吾が演じていたのは「ライサンダー役の青年」といった感じ。

劇中劇の印象って、私はマトリョーシカのイメージです。
だいたい劇中劇を取り扱う作品って多くは二重構造だと思うんだけど(例えば、映画「ドライブ・マイカー」、ジェシー主演舞台「スタンディングオベーション」)、今回は多重構造の気がします。
1番外側の劇は「表題としての夏の夜の夢(要は板の上に立つ俳優陣とそれを見ている我々観客)」
その中にある劇が「森の中に敷かれた板と座布団が引かれた寄席(ここが境目曖昧だけど、主にパックの一人芝居とそれを見ている俳優陣)」
さらにその中で演じられる「シェイクスピア原作戯曲の夏の夜の夢」
分かりやすく劇中劇として描かれている1番小さいマトリョーシカが「職人たちが演じる喜劇と化したトンチキ悲劇」かな。これはやっている最中、観客席の照明が灯っていたり、ライサンダーが客席に向かって拍手を促していたり(上演期間後半で加わった変化だった)、分かりやすくこちらも劇の中に巻き込まれていました。


【パック及びライサンダーの心の傷に関して】

「夏の夜の夢」に関しては、原作を読んだので大丈夫だと思ったのです。理解度的に。
でも本当に、パックというか子役たちに関しては、観劇後いい意味で大混乱を与えてもらいました。
なんだ、あれは。どういうことだ。
パックの存在によって急に喜劇じゃなくなった。

2回観ても、やっぱりまだ分かりきらないことだらけなのですが、一個人の解釈として書き起こします。

冒頭、「パック役の少年」は「ライサンダー役の青年」が車椅子を押して登場しました。
並びとしてはハーミアとライサンダーの間に車椅子が置かれる。
そして、「夏の夜の夢」のお芝居が始まり、次々に蓑を脱いでお芝居を進めていく中、1番最後に蓑を脱いだのはパックでした。

そのパックの登場のさせ方がすごく雑なのも気になっていて……
劇中劇構造の中で現実に近いところに位置しているであろう舞台のバラシと同時並行で行われる「職人達の出し物の打ち合わせ」の最中、段ボールに覆われて運ばれていたパック。
敢えて分かりやすく世間の目から隠されている感じ。
これは2回目観て解釈深まったので後述。

車椅子から立とうと奮闘するも倒れ、そこにやってくる亡霊という役名を冠する5人のアンサンブル。
亡霊が支えて、歩くことを指南したお陰で他の妖精と共に跳ね回れるようになった。
そこからは「夏の夜の夢」でお馴染みの悪戯っ子で茶目っ気たっぷりの可愛い妖精でした。

そのパックが劇の1番最後、いわゆるエンディングで、後口上で語ったのちに再び倒れ込むわけです。

それに抱き締めに行くのはライサンダー。
もう、特筆すべきは、その抱擁のなんと慈しみ深く温かく悲しいことか。
私の涙腺はここで崩壊しました。
そうして、そんなパックを抱えて行くのはボトム。

これ、2回目で初めて気付いたんですけど、パックの後口上に視線を向けているのはライサンダーとボトムだけなんです。
あとのキャストさん達は正面をみつめていました。
2人ともパックからイタズラを受けていました(ボトムはロバ頭、ライサンダーは惚れ薬を間違えて塗られた)。
なんであそこで倒れたパックに寄って行ったのがあの2人なのかなぁと1回目に観劇した時からずっと考えていました。
まず仮説として、立てていたのが以下の2つ。

(1)作中、オーベロンの台詞で「彼らの子供が何一つ傷無く産まれますように」というのがあったのが気になっていて。もしかして車椅子のパックはライサンダーとハーミアの子供で、脚が不自由に生まれてきたのでは…?などと思うなどしています。これは自分で考えて辛かった。

(2)人間の世界からは妖精の世界って不可視だし、干渉するものでもないけど、ライサンダーとボトムはパックからの干渉を直で受けている人物なんですよね。その影響で本来だと干渉できない人間が妖精のパックに歩み寄れたのかなぁと思いました。

2回観劇した今の解釈としては、(1)と(2)の融合的に考えています。

「パック役の少年」は「ライサンダー役の青年」の弟か何か。おそらく血縁者?
古い文化では忌み子と呼ばれて隠されていた子どもかと。
ここが段ボールのくだりと辻褄が合いそう。
これが「ライサンダー役の青年」の心の傷かな。
「ボトム役の男」はその父か何かか。
そして村の長でありそうな「テセウス/オーベロン役の長老」と「ヒポリュテ/ティターニャ役の老婆」。
上記4人と子役、亡霊以外の俳優陣は「パック役の少年」と接触は一切ないし、その存在をちゃんと認知していないんですよね。
最小限の関わりの中で芝居に参加していたのかなと。

そして、その演技を拙いものだけど、どうか拍手をと観客に促す長老。
劇中劇に組み込まれた我々観客。
妖精の世界と現実世界が明確な区切りはなく、同じ場にあったように。
板の上と我々観客の世界も曖昧なところで溶け合っていたのかと思いました。

いずれにせよ、夏組・夢組でWキャストを組まれている子役たちの存在が、冒頭の三番叟含めてこの舞台の中ですごく異質でした。


【現代の雑音が組み込まれた演出】

戦争の音、LINEの通知、赤ちゃんの泣き声、英語で読まれるニュース。
パンフレットを読んだら少し答えが見えた気がして。

ようは世の中の混乱困難暗いこと全てなのでは?と思いました。
疫病、戦争、忙殺されそうな日常。ラストには騒音の最中、神々のいる森を去って、またその世界に向かって行く役者の面々。
舞台を観劇している時間から、観客にとっても現実に帰っていくことの表れのような気がしました。


【歌舞伎の取り入れ方】

これに関しては浅学すぎたので、観劇後色々調べました。付け焼き刃の知識すぎるので違っているところがあったらすみません。
薄目で見てください。

まず度肝を抜かれた冒頭の三番叟。
これって能の演目の一種で『翁』の後半の部分にあたるとのこと。それを子役が舞う時点で何やら不穏さがあるのですが、舞いの意味としては「天下泰平」や「五穀豊穣」を祈るというもののようです。
なんとなく、ラストの雑音の演出と相まって納得してしまいました。

あとは、石橋物(髪を振り乱すところ)を紛い物の状態で披露しているのが結構気になっていて。まぁ職人たちのストーリーの中にライオンが出てくるから獅子なんだろうけど。そこでちょっと気になって調べてみたら、石橋物の状態は、民俗学的にはトランス状態(神がかり)になって、はたから見ると狂っているように見える状態を表しているっていう説があるそうなんですよね。恋は人を狂わせるのが主題のひとつである本作にはぴったりかもと思いました。なんかしっくりきた。

あとほーんとに詳しくなくて恐縮なのですが、歌舞伎も女方を男性が演じたり、シェイクスピアの戯曲でも女性役を男性が演じたり、そういったところで今回の演出としての親和性は高かったのかなぁと思いました。


まとめ(というか弁解も込めたあとがき)

ということで、初見かつ浅い知識による解釈だったわけなのですが、これは2回目を観に行って少し分かったような気になり、同じだけ「やっぱり何も分かっていないのだ…」と打ちのめされました。
でもその余白というか、想像の余地があるのが面白さですね。

舞台はナマモノなので、公演を重ねるごとにアドリブがあったり、演出の微調整があったりと、変化があったのもまた面白かったです。

見れば見るほどに新たな気づきに出会える。
喜劇でたっぷり笑わせてもらったけどそれだけじゃない。
すごく魅力的な舞台でした。

そこに髙地くんがあんなに堂々と素晴らしく演じ切ったことが一ファンとしてたまらなく誇らしいです。

思うがままに書き連ねました。
乱文の最中、最後までお付き合いいただきありがとうございました。

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