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甲子園球場で始球式することを夢見て

経営者を目指す直近7つの要因
・TOKYO2020がなくなったこと
・オーストラリアへ行くことを断念せざる得なかったこと
・宇宙ベンチャーで総務業をすると決めたこと
・会社は想像の10倍ベンチャーであったこと
・業務の進め方、自分の立ち位置にたくさん悩んだこと
・社長車事故を起こしてしまったこと
・自分の"幸せ"と向き合ったこと

オーストラリアへ行くことを断念せざる得なかったこと

今日はこのテーマで振返りと経緯説明しようと思う。

自分が生まれ育った別の環境で生活してみたかった

私は常にいつ死んでも後悔のないよう日々を過ごすことを心がけている。学生時代海外旅行10カ国(欧州周遊含)、環境NPO団体での活動、アルバイトにインターン、趣味(音楽、アイドル、アニメ、カメラ)、人に会うこと遊ぶことに時間とお金を費やしてきた。大学卒業間近唯一やりのこしたのは留学経験だった。目的は外国での生活すること、語学力向上を若い内にしておきたかったと。しかしその時はとにかく国内でやりたいことがたくさんあったので、社会人になってから実現させようと計画していた。旅行会社を辞めようと決意した2年目の途中、とりあえず100万円貯めた。目的が明確になると資金も貯めることも割と簡単にできた。当初留学を検討していたが、就労許可があるワーホリビザしようと決め、アイスランドと迷った末オーストラリに行こうと決意した。その時世田谷区千歳烏山にあるシェアハウスで生活していた。そこにワーホリ経験者が4人いたが、内3人渡航先がオーストラリアだったので情報収拾させてもらった。

手続きのために国籍を変えた(帰化)

私は生まれて27歳まで韓国国籍だった。帰化するつもりはなく結婚したら相手の国籍になろうかな、くらいに考えていた。アイデンティティーとの葛藤は中学生くらいからずっとあったが、20歳くらいの時に「みんな地球に住む地球人なんだ」と自分が勝手に引いていたボーダー(直線)を、円(まる)にしてみたら気持ちがとっても軽くなった。これが私の葛藤の終着地点だった。

ワーホリビザ申請をする際韓国籍の場合ソウルの病院での健康証明診察書が必要になり、オーストラリアでの窓口も韓国大使館になる。私は韓国語で申請手続するほどの韓国語能力を持っていない。英語もまだまだ不十分だったので、このタイミングで日本国籍に帰化しようと決意した。自分で書類を集め、民族団体で事務経験のある母に翻訳をお願いし、行政書士なしで書類の準備ができた。約5ヶ月間かかったが約30万円かかる行政書士依頼料はなしだ。9月に書類申請と最初の相談、10月に1回目の面接、12月に2回目の面接、追加書類の提出等もあったが最終的に翌年4月15日に許可がおりた。10年前までは帰化するのに2年要した、行政書士を通すと資料作成に1〜2ヶ月申請許可まで半年でできると聞いたことがある。資料集めに5ヶ月、申請から許可まで8ヶ月、1年ちょっとでできたと思うと順調にできた方であると思う。

コロナショックはコロナチャンス!?

 あとはワーホリビザ申請をするだけのところまできた。しかしそれは「COVID-19」ウイルス感染症の拡大により、申請が止まってしまった。2020年4月、旅行会社の仕事は正社員からパートタイムに切替り、オリンピックは延期になり、ワーホリ申請もできない。さあ、どうするあゆ!?

次回へ続く

28歳のあゆから13歳のあゆへ

バッティングフォーム

投球フォーム

転校先の中学校でソフトボール部に入部し、まわりは小学校からの経験者ばかりでなかなかレギュラーになれない138cm,30キロのちびでがりがりのあゆちゃん。練習試合で9番センターでたまに試合に出てたね。28歳になって愛知県碧南市の草野球チームに所属して、1番ピッチャーで試合に出る日がくるなんで当時想像できる人がいただろうか。いたらその人の言う通り宝くじを買うよ。チャンスはどこで巡ってくるかわからないから、今はひたすらベンチで声出して、体力と精神力を鍛えてください。

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