見知らぬ誰か

 考えても意味のないことを考える時間が好きだ。あの人の服はいつから着ているのだろう、明日の今頃は何を話しているのだろう…または夜の間に人は明日へのパワーチャージをするのだろうかとか。時間があればあるほどこのようなことを頭の中で考えている。どの疑問も考えなくても十分生きていける。この無意味とも言える個人的な時間が私の中心にいつもある。もはや、核とも言えるかもしれない。

 例えば、音楽を聴いているとき。私は「この歌手はどこでどのような生活しているのだろう」と会ったこともない誰かに対して思いを馳せる。「今は朝だから起きて朝ご飯を食べたんだろうな。ご飯は誰と食べるんだろう。一人かな?いやいや、もしかしたら今頃は顔を洗っているのかな」と一見無意味とも捉えられるような考え事が内側から自然と湧き上がってくるのである。顔の知らないアーティストであってもだ。

 時折こんな風に見知らぬ誰かのことを思い、人生で会う事のない人の生活を一人静かに想像してみるのである。その「見知らぬ誰か」はこうして私が文字を書き連ねている今もどこかで息をしていて、暗い部屋で眠っているかもしれないし、はたまた心が揺れ動くような映画を誰かと観ているのかもしれない。美味しいお酒と大好物のおつまみを手元に置いたりなんかして。

 誰の人生にも「直接出会えない誰か」がいる。直接話すことも、目を見つめることも、はにかんで笑うことも、泣きそうな顔でがむしゃらに何かを訴えることも、触れることもその「直接出会えない誰か」とは共有できない。同じ時間をこうして生きている相手だとしても。そう思うと、なんだか遠くにいる会えない誰かに手を差し伸べたくなる。

 出会うことのない誰かが、今もどこかで誰かを思い、自分の人生を創造しているのかもしれない。「焦らず、ゆっくり頑張って。頑張ろう、私も。時間をかけてもいいから」と、無意味なエールを誰かに送る。そんなことをこうして一人で考えている。

 出会う事のない誰かへ、いつかどこかで。

 

 

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