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「まなざしのデザイン」没原稿集

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2017年11月13日に上梓した「まなざしのデザイン」に編集の都合上で掲載できなかった原稿を、こちらにアーカイブしていきます。
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駿台全国模試の現代文に採用された自著「まなざしのデザイン」を解いてみる

拙著「まなざしのデザイン」が、2018年12月末の駿台の全国模試の国語の問題に採用された。まさか自分の文章がセンター試験に向けた全国模試で選ばれると思っていなかったので青天の霹靂ではあったが、全国各地の受験生の目に触れたことは素直に嬉しい。  また現代文の問題に選ばれた理由として、「文化・芸術論をベースにして知や社会の枠組みを問い直そうとする論旨の文章を出題した。」と書いていただいたのも大変光栄に思う。  事前に駿台予備校からは出題に使う箇所のことは聞いていたが、試験が終

5-1まなざしの高度と進化

「まなざしのデザイン」没原稿:第5章「心の進化」01  あらゆる生命は環境に適応させて身体を変化させてきた。ダーウィンの唱えた進化論が正しいとすれば、環境に適応した身体を持ったものだけが生き残り、その他の遺伝子は淘汰されていく宿命にあると言える。地球には約40億年前に原始生命が生まれたと言われているが、その頃からずっと継続されている生命の進化の中で我々人類はどのように位置付くのだろうか。  進化論というものがもし正しいとして、我々人間がその進化の頂点に立っているということ

5-2モノの進化

「まなざしのデザイン」没原稿:第5章「心の進化」02    では人類は退化しているのだろうか。進化と退化の基準ははっきりとは定義できないが、私たち人類が地球において他の動物とは異なる戦略を取ったということは確実だ。それは身体を進化させてまなざしの高さを物理的に持ち上げるという方法ではなかった。直立の状態まで頭を持ち上げ、頭の高さをこれ以上あげることが出来なくなった私たちは、ついに頭の中を進化させたのだ。  頭の中の想像力を使って、実際の頭よりもさらに高いところにまなざしを設定

5-3問題はもはや部分的には解決できない

「まなざしのデザイン」没原稿:第5章「心の進化」03    私がクリエイティブシェアを考えるために、アトリエで共異体(Transunity)の活動を始めた2008年はリーマンショックの真最中だった。しかしその時にはまだ自分の中でのまなざしは、共同体のあり方や価値観といったまだ身の回りの問題にしか向けられていなかった。しかし2011年に東日本大震災で明るみに出た様々な事実は、自分の周辺の問題だけでは済まされないという危機意識を私に突きつけてきた。  今世紀に入ってから、マグニチ

5-4文明から文化へ

「まなざしのデザイン」没原稿:第5章「心の進化」04    私たちは一体どういう文明を共有しているのだろうか。文明というのは文化よりも大きな枠組みだ。この文明の全体像が見えないままで、文化や芸術の問題だけに焦点を合わせると問題の本質を見失うだろう。そして文明を考えるためには、それを成立させた生命の相互協力へとまなざしを向けねばならない。  あらゆる生命が共有する唯一のテーマは「生存する」ことだ。しかし生命の生存というのは他の生命との協力なしには成り立たない。私たちの身体も、は

5-5どこまで「より良く」を目指すのか

「まなざしのデザイン」没原稿:第5章「心の進化」05    しかし一方で、より良く生きることへの追求はどこまで行けば終わりがあるのだろうか。生活はどんどん便利になっていくことを目指す。苦しいことは生活の中から出来るだけ減らして、楽しいことだけを見つめることが当たり前になる。暮らしの質を上げていくことが必要なことは当然だが、どこまで行けば私たちは満足するのだろうか。より良く生きることの意味を取り違えると、それはどこかで反転することになる。  私たちは「どこでも、いつでも、新鮮で

5-6愚か者は世界を救うのか

「まなざしのデザイン」没原稿:第5章「心の進化」06    バックミンスター・フラーが私たちの惑星を宇宙船地球号と呼んだのは1963年のことだ。アポロ8号によって月面からの地球の姿が撮影されたのが1968年。その時以来、私たちは地球という一つの豪華客船に乗っていることを全員が知っている。  ある夜に一隻の豪華客船が大きな海を航海していると想像してみよう。視界はよくないが船は今の所、穏やかな海を進んでいるように見える。しかしその先に何があるかはよく分からない。向こうには大きな

5-7心の進化をめざして

「まなざしのデザイン」没原稿:第5章「心の進化」07  これまでの延長線上では、きっと人間は次へ進化できないのではないだろうか。いや、進化どころかこのまま滅びて地球上から淘汰されてしまうような種になるかもしれない。おそらく、私たちが生き残って進化を遂げるためには、もっと根本的に何かを変えねばならないのだ。それは世間でまことしやかに叫ばれているようなイノベーションやデザインなどというようなものではなく、もっと決定的なものに違いない。頭を進化させ、物を進化させた私たちが、次に進

5-8私たちはどこへ行くのか

「まなざしのデザイン」没原稿:第5章「心の進化」08   なぜ生命が進化を目指すのかということに、現代科学はまだ答えを出していない。宗教はそれぞれによって様々な解釈を持っているが、その中でも明確な理論を持っているのは仏教ではないかと思う。仏教の世界観というのは現代の素粒子論や分子生物学のように、この世界の一切のものはそこにとどまらずに生成と消滅を繰り返しているという輪廻転生がベースになっている。そしてその根底には「心」が関係していると釈迦は考えていた。  釈迦は生命というも

5-9まなざしを引くと全てが関係している

「まなざしのデザイン」没原稿:第5章「心の進化」09    これまで繰り返し風景とは「場所」と「人間」との関係性で生まれるということに触れてきた。この両者の関係性をより理解するために、私たちのまなざしの高さを頭の上よりさらに高く上げていき、風景を縁取る枠をずっと遠くへ引いてみる。そうすると色々なものと複合的に関係している風景が見えてくるだろう。  まず「場所」というものを考えてみる。場所をみているまなざしを上空へずっと引いていくと、私たちが場所と呼んでいるものは全て「地球」の

5-10まなざしから生命表象学へ

「まなざしのデザイン」没原稿:第5章「心の進化」10    まなざしの高度を変えていけば、風景は様々なスケールへと変化し、実は無関係と思われていたものが総合的に関係しているということがわかる。風景というのは、自然と人間の両方の表れである。風景とは一部分だけ取り出すことはできず、自然も人も全てが関係付いているで具体的な世界の把握の方法である。  しかし近代文明以降の20世紀は、それを細分化して一つ一つに焦点を当てることを選択した。そのことでまなざしの解像度を上げて詳細に把握し、

はじめに 個人的な風景の記憶

 自分が見えている風景というのは、果たして他の人が見ている風景と同じなのだろうか。おそらく誰しもが一度は考えたことがあるようなことだと思うのだが、ぼくの場合も小さい頃のどこかの段階でその疑問を持ってしまった。子供だとすぐに忘れてしまうような疑問なのかもしれないが、ぼくの場合はその疑問が薄れずにいた。その理由は自分の生い立ちを思い返すと割と明確に思い当たる。  ぼくが物心がついた時に住んでいた家は、山の中腹にあるニュータウンの一番高くに位置する家だった。西を向いた山の斜面に張

アートはクエスチョン、デザインはソリューション

 風景とはまなざしに応じて生成と消滅を繰り返す不安定なものなのだ。 ここで風景と呼んでいるものを、世界や現実という言葉と置き換えてみても、実は同じことが言えるのではないかと思う。つまり、世界や現実は生成と消滅を繰り返している。  古い世界が消えて、新しい世界が生まれる。古い現実が消えて新しい現実が生まれる。そして価値や意味という言葉と置き換えても同じことが言える。古い価値が消えて、新しい価値が生まれる。古い意味が消えて新しい意味が生まれる。  何が言いたいかと言うと、この世

自己という病

  ※「まなざしのデザイン <世界の見方>を変える方法」の第12章に修正稿を載せています。そちらもご参照下さい。  「自己肯定感が持てない」という病は深刻である。多くの人が自分も知らない間に、この病にかかっている。そしてこの病は何をするにしてもやっかいなのである。というよりも生きていく上で厄介である。場合によっては死に至る病なのだ。  この10年ほど、社会人や学生を含めて色々と観察してきた中で、相当な数の人がこの病にかかっていると感じている。そしてこの自己肯定感とその人の