食べることをやめるとどうなるか

●七号食の十日目を終える
 昨日で七号食を始めて丁度十日目を終えた。七号食とは食養学における半断食の方法で、十日間玄米のみを食す。残りの六日間は回復食として玄米に味噌汁を追加した六号食になる。今日からその回復食の期間に入る。
 本来の七号食とは一日に〇.七合までの米を食すとされている。しかしうちのアトリエに居る食養学者の冨田哲秀氏はそれを、一日にいくらでも食べて良いという方法に改良した。それは誰でも実践しやすくするためである。
 この「トミタ式七号食」は僕自身もこれまでに何度か実践したことがある。しかし本当のことをいうと、凡人の僕は断食などしたいとは思っていなかった。食欲のままに食べたいし、それを抑えるストイックなことも自ら好んで実践しようとは思わない。好奇心から試してみたというのが本音だ。
 だが今回は自らの意思で実践してみようと思った。しかも今回は一日に〇・五合強のお米を一食だけ食べるという本来に近い形で実践してみることにした。一日にたったコップ半分のお米だ。通常僕が食べている量からすると、あり得ない少なさだ。それはいくつかの理由がある。
 一番の理由としては、バルセロナのグラシアのギャラリーで作品発表をする機会を頂いたことだ。これまで考えてきたことをアウトプットする場が与えられたのだ。
 僕のこれまで続けてきたスタンスは、何かお話を頂いてから表現を考え始めるというものだ。通常のアーティストは自ら発表の機会を求めていくが、僕の場合は日々の中で温めた問いを誰かがスイッチを押すことで表現される。これからは少し変わるかもしれないが、そういうプロセスをこれまでは試してきた。
 僕自身はアート表現というのは、個人の問題意識を通じて、社会に何かを問いかけるものだと考えている。今の自分自身が個人的にリアルに感じていることと離れた表現をしたところで、力を持たない。
 この一年欧州に来て様々なことを感じて考えた。その結論としては今の世界はそれほど長くは保たないだろうなという実感だ。これは僕がアトリエを始めた二〇〇八年頃から意識して行動していたことだ。しかしもっと遡れば小さい頃から薄々感じていたことではある。地球環境や生命環境に関わる道に進もうと考えたのも、その歪な文明の形に違和感を覚えたからだ。
 この大きな問いはいつか作品として表現したり、研究成果として発表する機会を持つだろう。しかし今回は半月という限られた日数の中での表現だったので、もっと個人的でささやかなところに動機を持つことにした。それが「食」である。自分の食事を見つめるところから問いを発することができないかと考えた。

●食べ過ぎによる不調
 欧州に来てから体調がどうも崩れがちだ。もちろん環境が変わったこともあるが、一番大きな原因として思い当たるのはやはり食だ。バルセロナにいる間は自炊するとしても、旅では外食が続く。そうなるとどうしても選択肢の幅が少なくなる。欧州では必然的に小麦と肉を中心とする欧米型の食事になってしまう。
 僕は自他共に認める無類の”米”好きだ。しかし一方で欧米型の食事も大好きである。米と一緒に食べればさらに良いが、欧米食を毎日食べても飽きない。そして若い頃は量も半端なく食べていたぐらい、食べることの快楽には従順だ。
 しかし僕の身体の方は、口とは反対らしい。欧米食をたくさん食べると体調がすぐに悪くなり疲れやすくなる。欧米型の食事はどうしても油と塩と肉が大量に身体に入る。それは知らない間に腎臓に随分と無理をかけることになる。排出機能を担う腎臓の働きがかなり低下する。そうすると少し歩くだけですぐに疲れて動けなくなるのだ。若い頃はそれでも何とか保っていたが、年齢を重ねるとそれが顕著になってくる。バルセロナへ来て十ヶ月が過ぎるが、随分と内臓の機能が弱っていたせいか、ここ最近は本当に疲れやすくなっていた。
 特にこの七号食に取り掛かる前にオランダ、ポルトガルと旅が続いたので、身体にも無理がかかっていたようだ。このままでは本当に倒れてしまうと身の危険を感じ始めた。だからちゃんと自分の身体と向き合う必要があると実感したのが、今の僕自身がリアルに抱えていた問題だった。

●エネルギーと身体
 以前から疑問に思っていたことがある。それは「私たちは食べないと生きていけないのだろうか」という問いである。私たちは食べるために働いている。食べなくては死んでしまうと思い込んでいるからだ。しかしその"食べねば生きれない"という考えそのものが、私たちのまなざしを強烈に固定化している可能性がある。それをそもそも疑ってみることが大事なのではないかと考えている。
 私たちは生きている以上、エネルギーが必要であることは間違いない。しかし外部からの物理的なエネルギーは食物だけではない。考えつくものとして大きく三つあるだろう。
 まず何を差し置いても一番重要なのは空気だ。我々は絶えず呼吸している。呼吸を止めれば九〇秒と保たない。酸素を取り入れ、二酸化炭素を吐く。このガス交換は常に行われている。だから我々にエネルギーを与える最も基本的な物理的要素は空気である。
 次に重要なのは水である。人間の身体は七〇%が水分で出来ている。食べなくてもしばらくは生きることができる。しかし水を一滴も飲まなければ、三日経つと立ち上がれなくなるだろう。水というのはそれぐらい我々の身体と密接に関わっている。水に関しては思うところあるのでまた別の機会にまとめてみたい。
 そして最後が食べ物だ。人間は食べなくても二週間程度は生きていられると言われている。食べ物はエネルギーの優先度で言うとそれほど重要なものではない。それにも関わらず、食べ物だけは異常に種類が多い。これほどまでに種類が必要かというぐらい多種多様なものを人間は食べる。しかも調理という方法でさらにバリエーションを増やしている。水と空気にも本来は種類がある。今はまだそこまで大きく可視化されていないが、水と空気の問題は食以上にこれから大変なことになってくるであろう。
 さて栄養学をもとにすると成人男性は一日にどれぐらい食べれば良いのだろうか。厚生労働省が二〇一五年度に出した食事摂取基準を見てみる。概ね僕の年齢の成人男性では二三〇〇〜三〇五〇キロカロリーを取るのがよいようだ。しかし今回僕がしている七合食では、一日に〇・五合の米しか食べない。それは概ね二六七キロカロリーとなる。厚生労働省が推奨する一日の栄養摂取量の約十分の一以下のエネルギーだ。
 また食物からの栄養では、五大栄養素と呼ばれているものが必要とされている。それはタンパク質、炭水化物、脂質、ビタミン、ミネラルであり、これらがバランス良く含まれていることが望ましいとされる。タンパク質は一日に六〇グラムが推奨されているが、栄養バランスとしては総エネルギーに対して、タンパク質が十三〜二十%、脂質が二十〜三十%、炭水化物が五十から六十%とされている。その他ビタミンやミネラルに関しても細かく推奨値が定められている。それらを摂るために、二〇〇〇年までは日本の食生活指針では一日三十品目を食べることが推奨されていた。
 一方で今回は十日間は玄米しか口にしない。従って総エネルギーに対する炭水化物の量は一〇〇%だ。ビタミンやミネラルは胚芽の部分に含まれるとしてタンパク質、脂質はほぼ摂らない形になる。
 現代の栄養学をことごとく無視する形での実践となる。玄米一種類にするという種類の制限だけでなく、今回は量も制限する。つまりエネルギーを制限するのだ。それで果たして十日間生活していくことができるのだろうか。自分の身体を使った実験である。

●マイナスからのアプローチ
 現代での大きな問題の一つは生活習慣病である。その原因として言われるのが日本では食生活の西洋化と運動不足である。では元々欧米食のスペインには生活習慣病は少ないのだろうか。そんなことは無いはずである。こちらの病院もいつも予約でいっぱいだ。
 成人の「高血圧割合」と「高コレステロール割合」の世界ランキングを見てみる。すると日本は高血圧割合が四三・九%で三九位に対して、スペインは四一・七%の六〇位。そして高コレステロール割合では日本は五七・八%の二五位に対して、スペインは五七・六%の二七位。どちらも日本の方が割合が高い。
 一方で成人の「太り気味の割合」を見てみる。そうすると、日本が二四・四%の一四八位に対して、スペインは六二・〇%の三八位と大きく差が開いている。要するにスペインの人たちの方が太っているのである。それははたくさん食べることが原因だと考えられる。何せ一日五回食べる国民性だ。太らないはずがない。
 私たちの身体を作るのには材料が必要ではある。しかし既に我々の身体の中には十分すぎる材料があると考えられる。そしてむしろその材料が毎日の食事で過剰になり過ぎて、整理できていない状態なのではないだろうか。それが様々な不調を生んでいる。例えるとパソコンの中のデータが多すぎて、処理速度が下がってしまうのと似ているかもしれない。
 そう考えると、総カロリーと五大栄養素で考える栄養学のプラスの発想では限界がある。食養学は陰陽のバランスとマイナスの考え方からアプローチする。栄養をプラスする中でのバランスではなく、プラスとマイナスのバランスを重視するのだ。
 既に身体の中にある材料が有り余っていて、その整理がつかない状況であれば、まずは身体へのインプットを制限するという考えに自ずと至る。身体にやって来るエネルギーを制限すると、内部にあるものをまずは使い始める。その過程で様々な不調が整っていく。現代医学が何を言おうと古今東西に見られる事例はそれを物語っている。
 実際に医学的にも近年はオートファージの研究が注目されている。人間の身体の基本単位である三七・二兆の細胞は日々の代謝の中で日々更新されている。その過程で細胞を一度壊して、それを材料に新しい細胞を作るのがオートファージの作用だ。
 食事を摂らなくなると外から新しい材料が入ってこない。だからオートファージがさらに促進されることになる。つまり細胞が自らを食べ出すのである。その過程で不要な物質が排除されていく。
 人間の身体が飢餓状態を基本に出来ているとすれば、現代は食べ過ぎなのである。それが様々な不調を生む。特に僕の場合は腎臓と肝臓の機能が弱まっているようなので、排出機能も衰えている。入った量を処理できないのだ。だから一度摂り入れることをやめて排出を促す必要性を感じていた。今必要なのはマイナスの考え方である。これは身体だけではなく文明全てにおいて言えることだ。

●神経の休息
 このマイナスのアプローチは物質だけに当てはまるのではない。我々の意識や思考にも同じことが言えるだろう。日々様々な情報が目まぐるしく入ってくる。それにいちいち反応していると、神経が疲れてくる。そうなると正常な判断を身体が下せなくなるのだ。神経は心と身体を繋いでいる。だから身心ともに神経を休める必要がある。
 日々の生活の中で私たちの神経は緊張と弛緩を繰り返して疲れている。身体を休めてリラックスしていても、頭の中は忙しければ神経は過度に動くことになる。脳内からやってくる思考や記憶という情報も、外からやってくる情報も両方とも一度停止させることで休める必要がある。
 現代において瞑想が必要とされ始めているのはそういう意味がある。僕自身は日々の瞑想の習慣をもう四年以上続けている。そのおかげで随分と神経の休息にはなっているだろう。
 いつか書こうと思うが僕が瞑想をする理由は、効率的に働きたいとか、能力を上げたいというシリコンバレーのような功利主義の動機とはまるで違うところにある。それでも副産物として、瞑想による神経の休息は日々の生活の中ではとても役に立つ。
 七号食期間中はカフェインとアルコールを取ることは禁じられる。これは物質を制限することの一環だが、それ以上に神経への負担を減らすことが大きい。特に僕は強いコーヒーを好んで飲む傾向がある。スペインはコーヒー大国なので僕にはとても嬉しいが、僕の神経はもううんざりしていることだろう。
 神経が正常でなくなると、様々なことが狂ってくる。感覚が鈍くなると欲や怒りで物事を判断するようになり、逆に理性的な判断が出来なくなる。だから神経の緊張を取るというのは非常に重要なことだ。そのためにアルコールを摂って神経を弛緩させるというプラスの発想ではなく、そもそも神経を無理矢理に緊張させたり弛緩させることを止めるというアプローチが必要なのだ。

●食の安全性
 それに加えて最近特に気になっているのが食の安全性の問題である。我々が考えている以上に食の安全性は見えないところで深刻化している。スペインは飽食の国だが、食の安全性は欧州の中では最も低いのではないだろうか。
 国連大学のウェブマガジンに「なぜスペインは遺伝子組み換え作物の EU最大生産国なのか」という記事が出ている。それによると、二〇一二年の段階だが、スペインはトウモロコシに関して、欧州共同体の遺伝子組み換え作物の九〇%を生産している。
 無論トウモロコシそのものだけではなく、それを加工した製品も同様に遺伝子組み換えである。そしてレストランで提供される食材も同様である。そもそもレストランの食材にはどのようなものが使われているのか我々には知るすべもない。遺伝子組み換えの話だけではない。遺伝組み替えでなくても残留農薬の話も深刻だ。そもそも土壌も危険な状態にある場合もある。
 肉に至ってはもっと危険な状態だ。スペインで見る鶏にはブラジル産のものが多い。しかし鶏などはほぼ全てが抗生物質にまみれているという話もある。そうでなくでも成長促進剤を投与され、薬漬けにされた肉は出荷されるともう分からない。食のトレーサビリティの話は外食においてはほぼ機能しないのではないか。実際に中国の鶏の生産農家などは、自分たちが消費する分は出荷分とは別に作っているという話もよく耳にするようになってきた。出荷する分に関しては誰が食べるかはまなざしが届かない。だから成長ホルモンを投与しても抗生物質が残留した肉を毎日口にする我々の耐性を下げようとも、気にしなくなる。まなざしが届かないところには、人は意識を傾けなくなる。
 産業化とは分業だ。分業することで我々は大きなことが出来るようになった。しかし一方で誰も全体が見えていない社会にもなってしまった。それぞれが部分的な効率を上げて生産性を高める目的に集中している。その結果として全体がおかしなことに向かっていることに気づけなくなる。全員が「誰かがちゃんと見てくれているだろう」と思っている。しかし実は誰もちゃんと全体像が見えていないのだ。
 世界的な分業は本来は信頼に基づいて発達してきたはずだ。しかしその信頼が揺らいでいる中で、システムが世界中を覆ってしまっている。そうしたシステムを元にした今の文明が長くはないだろうと思うのはそういう理由もある。自らの体内に入るもの、自らが使用しているもの、自らの命を支えているものにも関わらず、それがどこから来るのかが我々には見えていない。
 今、日本でも世界でも顔の見える関係性の中でモノやサービスをやりとりする試みが始まっているのは、そうした危機感が軒並みならないぐらいにまで迫っているからだ。自らの身をまずは自らで守らなくてはならない。そのためにもまずは基本となる食ということを見直すことが重要なのだと感じている。

●半断食中の身体の変容
 さて七号食をしていた十日間どうだったのか。それは一言には出来ないような様々な変化があった。当然の事ながら初日、二日目は苦痛の時間だ。空腹が常に襲ってくるので、頭は食べることをずっと考えている。夢にまで食事が出てくる。街を歩けば目に様々な食べ物が飛び込む。鼻には美味しそうな匂いがやってくる。様々な誘惑が渦巻いている。だから七号食の三日目ぐらいまでは、都合が許せば街を出歩かないことをお勧めする。
 そして瞑眩反応と呼ばれる反作用が大きい。とにかく眠い。もちろん糖分が急に遮断されるので低血糖にもなる。だから玄米甘酒を飲むのが必須だが、それでも徐々にしか回復しないので立っていられない。今回僕の場合は四日目ぐらいまではこの倦怠感と瞑眩反応で廃人のような感じだった。
 しかしである。その地獄のような三〜四日を抜けると徐々に変化してくる。体重は最初の四日間で約四キロほど減った。一日にコップ半分の米を炊いてそれをお粥にして一回だけ食べているのだから当然だ。しかし不思議なことに五日目からは体重の減り方が穏やかになる。二日かけて一キロ減り。そこから三日ぐらいかけて〇・五キロ減り、その後は全く減らなくなった。この辺りが自分の適正体重なのだと分かる。
 これまでも右の背中が時々痛むことがあったが、これが五日目ぐらいに酷くなった。筋肉の痛みかとこれまで思っていたが、どうも腎臓ではないかと疑い始めた。おそらくそうなのだと思う。
 七号食で外からのインプットを止めると、こうしてかえって不調が出てくることがある。これを恐れてここで辞めてしまう人が多いらしい。しかしこれはむしろ身体が回復へとスイッチを切り替えた証拠だ。だから様々な不調が出る度に、そこが改善されている証拠だと考えれば良いのではないかと思う。
 僕の場合は五日目あたりから右の腎臓のあたりの背中が痛み始め、それが八日目ぐらいまで続いた。八日目から背中の痛みは肩甲骨と肩の痛みへと移った。筋肉が凝っている感じがして、腕が上がらなくなったのだ。
 パソコンや本などを入れた重たいリュックを背負っているからかとこれまで思っていた。しかし、この凝りが九日目から十日目ぐらいにかけて徐々に弱くなった。十一日目の今日はすっかり凝りは取れている。同じように重たいリュックを背負っているにもかかわらずである。ということは中からやってきた凝りなのだろう。
 その他には六日目あたりから身体が軽くなり始めた。これまでは歩いていてもズシリと重たい感じだった。しかし六日目過ぎたあたりから歩いても足がどんどん前に出て行く。そして疲れなくなってきた。これまでは少し歩いては休憩しないと動けない感じだったが、一日中歩いてもまるで疲れない。作業もずっと集中してすることが出来る。
 冬のせいか、手足の冷えだけはずっと残っている状態だ。お通じは六日目に一回だけ量があったが、それ以外はほぼない状態である。五日目から背中の痛み以外は快調で食べていたときとは別の身体のようだ。
 これまでも七号食をしたことはあったが、大きな変化を感じたことは無かった。しかし今回は量を食べることを辞めただけでかなり劇的な変化を実感できた。

●空腹と食欲の分離
 そして何より変化として大きいのは身体以上に心である。最初の三日間は頭の中はほぼ食べることを考えている。人間の食欲への執着とはすごいものだ。妄想の中でも食事を摂り始める。
 しかしそれが僕の場合は四日目ぐらいから感じが変わってきた。だんだんと食事のことを考える時間が減っていったのだ。それと共に空腹感も減っていった。一回しか食事をしないと一日が長い。僕の場合は夕方五時ぐらいから七時ぐらいまでにその一回の食事を摂るようにしている。なので、午前中から夕方まで一日がとても長く、様々なことに集中できる。不思議と集中力もあまり途切れない。
 元々朝食を食べる習慣を五年ほど持っていない僕は、普段から午前中は空腹感を感じることは少ない。しかし今回は四日目ぐらいから八日目ぐらいまでは二時から三時頃になるまで空腹感を感じないようになった。八日目を越えると夕方になっても空腹感がやってこない。食事を摂るのも時間が来たからであり、空腹を感じたという理由ではなくなっていった。
 八日目ぐらいに得たのは、「空腹」と「食欲」は別物であるという感覚である。夕方になると確かに空腹は感じている。物理的にお腹が鳴っていることもある。しかしだからと言って「食べたい」という食欲にはつながらないのである。これは不思議な感覚だ。
 我々はお腹が空いたから食べる訳ではない。食べる理由をお腹が空いたことにしているだけだ。本当は食欲が我々を食事へと駆り立てるのだ。以前テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老と三十分ほど二人で話した事があるが、人はなぜ食事をするのかという話になったことを思い出す。人はお腹が空いたから食べるのではないという彼の言葉が残っている。
 しかし一日に〇・五合の玄米だけを食べるように身体を持っていくと、不思議と量も必要なくなる。そもそも一種類の食物であればそれほど多くは食べれない。種類が増えると食欲も増してくるような気がしている。
 量も同様で、量を食べるからまた次も量が欲しくなる。少なく済ませると、次も少ない量でお腹は一杯になる。欲というのはだんだんとエスカレートしていくのだ。
 今日からは玄米に具なし味噌汁が追加された回復食に入った。精進出汁に有機味噌を溶いて食べる。この十日間で身体をタンパク質の飢餓状態にしておいたので、染み渡るように味噌汁が身体に広がる。しかし不思議なことにやはり一種類追加されると食欲が少し出てくる。食事の種類と量は関係しているのかもしれない。

●少食の先の世界
 ひとまずパフォーマンスの当日である十六日が丁度七合食の終了日でもある。この半月この一日〇・五合を実践してきた身体をそのまま「生きた彫刻」のようにパフォーマンスとして見せる。スライドを百枚ぐらい使った十六分ほどの映像の前で、食事を摂りながらするサウンドパフォーマンスとして表現する。
 パフォーマンスが終了すれば、ひとまず七合食も終了する。この先はおそらく一日二回の基本食に戻るだろう。せっかく一日一回になったので、少々惜しい気もする。この少食の先に一体何があるのだろうか。
 世界には「不食者」と呼ばれる人々がたくさん居る。文字どおり食事を摂らない人々だ。表にはでてこないだけでかなりの数居るのではないかと思う。いや最近では表にも出始めている。概して言えるのはそういう人々は通常の食事をしている人よりも健康であるということだ。そして少食の人もその例に洩れずに健康である。
 こうした少食や不食は現代医学からするとトンデモやエセ医学として否定される。科学的な根拠に乏しいと言われるのだ。少食や断食で病気が治ることに対して否定的で、そうした根拠の乏しことで社会を混乱に貶めるなという論調が基本的なスタンスのようだ。
 こうした代替医療、民間療法の知識や方法を使って法外な値段を吹っかけてくるような商売が現れていることもその原因の一端を担っている。オカルトじみた方法や宗教的な方法に見えることもあるので、胡散臭いイメージを持たれがちかもしれない。
 僕自身はどちらのスタンスに対しても「観察的な立場」を取ることにしている。今、正しいとされている科学が明日も正しいとは限らない。だから代替医療や歴史的に培われてきて効果があった方法を全て迷信やオカルトとして一蹴するのは極めて愚かな態度だと思うからだ。それに今の社会は純粋に科学を追求しているとは思えない。裏には様々な意図や損得や利益誘導がある。研究助成金の配分のされ方からして見えない補助線が敷かれている。
 その一方で科学的な根拠や態度を全て無視するのも同じぐらい愚かなことだろう。現在の啓蒙科学は限定的とはいえ方法論としてかなり厳密なエビデンスに基づいている。その表面のエッセンスだけをつまみ食いしてビジネスに展開することが弊害をもたらすのは確かだ。単に現代科学を代替医療にすり替えただけで、様々な意図や損得や利益を正当化しようとしているだけである。
 本当に価値あるものは、誰でもが無料で実践できることだ。だからできる限り自らで確かめるという方法が自分には合っている。それを「主観的な科学」として考えているが、それはまさに芸術がするべきスタンスのような気がしてならない。今回はその主観的な科学を「普遍的な表現」へと変換する芸術の働きに関心がある。内部から作られる生命の美しさというものは普遍的なものではないのかと思う。
 今回作成した映像の中には、我々が少しでも食事を減らすことが一体何を浮き彫りにするのかを盛り込んだ。世界では現在二五億トンの穀物が年間に生産されている。それを世界人口の七三億人に等しく配るとすれば、年間一人あたり三四〇キログラムの穀物となる。これは年間に我々が消費する量の約二倍とのことだ。
 あきらかに我々の「食糧生産量」は消費量を上回っている。食糧は過剰につくられているのだ。しかも環境を汚しながら、農薬や遺伝子組み換えや、薬品投与などの方法によって実現されている。それは自然のサイクルから明らかに外れている。
 そして出来た食糧が均等に分配されているかというと決してそんなことはない。食糧生産量がそれぐらいあるのに、世界では約八億人以上の人々が飢餓で苦しんでいる。一方では有り余っているのに、もう一方では不足しているのだ。
 望んでも食べれない人がたくさん居る一方で、僕自身は本当は食べれるのに自ら好んで半断食をしている。僕だけではない。現代には食べ過ぎて病気になる人がたくさん居る。そして食べ過ぎた身体のエネルギーを消費しようとジムに通う人も相当いる。わざわざ食べさせて、わざとそれを消費させたり、病気になった身体を治療したりする。全てそこにはビジネスが介在するのだ。こうした歪な姿の文明が長く保つはずはないだろうという実感は強まるばかりだ。
 それが少しだけ食事をカットしてみることで見えてくるものもある。身体が変わり、精神状態が変わり、欲が少し抑えられる。そうして自制するようになると神経も正常に働き、まともな判断ができるようになる。まなざしの曇りがだんだんと取れてくるのだ。自らが食べるために働くという精神状態が変わってきて、人のために働けるようなマインドが育ってくる。
 動物は生きるために食べる。しかし人間は食べるために生きている。我々の動物としての身体の声に耳を傾ければ必要な量というのはそれほど多くはないはずである。消費がそれほど多くなければ生産もそれほどする必要もないはずだ。必要な分を必要なだけ生産して、それをごく当たり前に分配すればいい。それが自然の法則だ。
 理念として平等を唱えることは出来る。しかしその根底に欲望が渦巻いていると、その欲望を正当化するために理念が掲げられる。そして厄介なことにその欲望というのは見えなくなっていることが多い。神経がそもそも傷んでいると自分がまともかどうかの判断は下せない。自分の欲望を直視せず、それを克服することがなければ、その理念には何のリアリティもなくなるだろう。
 自分個人としてできるアクションはとても小さい。しかしそれを実際にしないと分からないことがある。概念の世界では到達できない認識だ。単に食事を少し控えるという小さなアクションである。しかしそれがこの飽食の国でどういう問いを投げて、そういう補助線を描くのか。そしてそれがどういう射程範囲を持っているのか。それを十六日のパフォーマンスでは問いかけてみたいと考えている。

2018.02.11 バルセロナにて




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身体異化論

古今東西の身体の変革に関しての考察。
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