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「やさしいまなざし」(2019年3月)

●3月4日/4th Mar
間違った行動をした人に対して、僕らが厳しいまなざしを向けるほど、社会はどんどん息苦しくなる。
誰も完璧ではないし、人間は時々間違った行動もする。だから僕らが寛容さを失うと、誰もが人のまなざしの前では自分の過ちを隠すようになるだろう。
大切なのは、正しき心を持っているフリではなく、本当に正しい心をちゃんと持つことだ。そのためには、自分の過ちや弱さを受け入れて乗り越える必要がある。そのチャンスは誰にでもあって良いと思う。
The more severe we are strict against the wrong action of someone, the more society becomes stuffy.
No one is perfect and human sometimes do wrong behavior. If we lose tolerance, everybody will hide own mistakes.
It is not important to pretend to be right mind. It is important to have right mind correctly. For it, we accept our mistakes and weakness, and need to overcome. Everyone has chance to do it.

●3月5日/5th, Mar
「事実」と「信念」は本来分けて考えねばならない。事実であっても、信じることが出来ないものもあるし、事実でないものを信じてしまうこともある。
信じることはもちろん大切なことだが、事実を確認することも同じぐらい大切だ。だが気になるのは事実かどうかよりも、”信じられるかどうか”の方に重きが置かれがちな風潮になっていることだ。
人間同士の頭の中で作られる社会という場所では、多くの人に信じられたものが事実になるという、逆さまの構造が生まれがちである。
それは言い方を変えると、信じているものに合わせて都合の良い事実が拾われることがまかり通る。あるいは多くの人に信じてもらえるように、事実として組み立てられていくという誘導が起こる。
特に政治的思想と呼ばれるものは信念が先で、事実の積み上げ方はその信念に合わせたものになりがちだ。事実よりも信念が先行し、その信念が変わらないのであれば、事実との食い違いが出た時に、事実の方が捻じ曲げられるのは当然だ。
そんな社会の中で、「事実がよく分からない」、そして「何を信じて良いのかわからない」ということが絡み合うと、人は面倒なことを考えなくなり、見えている範囲だけで世界を完結させる。
あるいはそれぞれの見方の数だけ事実がある状況となり、互いのコンフリクトは避けられない。
拙著「まなざしのデザイン」の12章では、そうした状況を「空想社会」として指摘したことでもあるが、なかなか人のまなざしというものは根深い。

●3月7日/7th, Mar
本日行われた愛知県公立高校の入試で拙著「まなざしのデザイン」が国語の問題文に使われたと連絡があった。
昨年春には山口県の教員採用試験、年末には駿台全国模試の現代文、そして今回の愛知県公立高校の国語と3つも入試で取り上げて頂き、少々驚いている。
僕は元々理系で、特に国語が得意な方ではなかったのだが、どういうわけかこんなことになり、本当にありがたく思う。
特に今回嬉しかったのは本書でも取り上げた詩人の長田弘さんの文章が、同じく問題文に取り上げられていたこと。そして取り上げて頂いた箇所が僕が最も力を入れた12章だったこと。冒頭の、"人間の眼が他の生物と決定的に違うのは過剰な想像が含まれていることで、その想像力には3つのタイプがある"という下りだ。
今回は12章だが、広島では11章、駿台では6章を取り上げて頂いた。
高校入試で取り上げてもらえたということは、中学生が読んでも理解できる文であると受け止めてもらえたことだ。
文章が難しいという声もたまに聞くことがあるので、難解な言葉遣いになっていなかったか心配だったが、これで少しは自信が持てた。
重版もようやく決まり、誰が読んでも理解して頂ける本だと胸を張って言えそうなので、徐々にでも読む人が増えればいいなと思う。
心より感謝。

●3月9日/9th,Mar
4月から 「マネジメント演習」というクラスを持つので、講義を組み立てている。拙著の一節「空想のマネジメント」の問いを拡張して理論とメソッドを整理するつもり。
「マネジメントとは何か?」
「なぜマネジメントを学ぶ必要があるのか?」
「マネジメントとデザインの違いは何か?」
「マネジメントに現代アートはどう関連するのか?」
「これからのマネジメントはどうなっていくのか?」
そうしたことを解説しながら、学生と一緒に哲学とトレーニングしたい。いずれ社会人向けにやってもよいかなと。
I will have my class named “Management theory and practice” from next April in my university.
So now I am constructing my lecture.
I will expand my theory and method from the chapter of my book about “management of imagination”.
“What is management?”
“Why do we need to learn management?”
“What is the difference between management and design?”
“How do management related to contemporary arts?”
“Where will be management going to?”
Around these, I will explain and give trainings to students.

●3月11日/11th, Mar
今日は3.11の地震からちょうど8年目の日。
この4月から福島のある美術館でインスタレーションを制作する機会を頂いた。
地震が起きたばかりの当初は誰もが混乱し、状況を理解できていなかった。今でもまだ未来への明確な見通しは持てずにいる。その中で何をすべきで、いかに作れるのかを考えている。
Today is the just the day of 8th year from 3.11 earthquake.
I have an opportunity to create my art installation at the museum in Fukushima from April.
At that time the earthquake just happened, everybody were confusing and couldn’t understand the situation. Now we still don’t have clear sight to future. In this situation, I am thinking what I should make it and how can make it.

●3月15日/15th,Mar
本日は京大にてインプットの一日。
午前中は「Art Innovation」シンポジウムに参加。山極総長の話、Prof.Scot S. Fisherのメディアアートの話、経産省の東哲也氏の大阪万博誘致の話、土佐尚子氏のサウンド生け花の話などを聞く。
午後は、京大の中でも場所を変えて「ホモ・サピエンスの未来」という全く別のシンポジウムへ参加。前半はサイエンスライターの吉成真由美氏の基調講演、後半は吉成さんに加えてゴリラ研究の山極総長、教育哲学の鈴木晶子教授、AI研究の國吉康夫東大教授による対論。
個人的には午後のシンポジウムが抜群に面白く、第一線の研究者へインタビューをし続ける吉成さんが指摘するような、人工知能社会、シンギュラリティの問題からテクノユートピアへの警告、フェイスブックがもたらした透明性への懐疑などを巡る問題提起には非常に共感する。
今の社会は多様性が増しているように見えるが、自分の価値観以外にまなざしが向かなくなる”フィルターバブル”が働いている。そして膨大な情報を前に、何が真実か見極められず日常化した嘘に慣れる”ハイパーノーマライゼーション”が起こるとの話だが、それはまさに拙著「まなざしのデザイン」でも大いに指摘した問題。
インターネットが台頭する中で起こる新しいファシズムとは、「何も信じられないから何も知る必要はなく何も行動すべきでない」、という態度から生まれてくる。今までも歴史的にはそういう態度は少なくなかったが、IT技術による大量情報拡散が世界規模でそれを進めてしまった。そうしたテクノロジーとファシズムとの関係には考えさせられたので、基調講演の吉成さんには僕自身も質疑を投げかけてみた。
ティモシー・スナイダーのホロコースト研究から導かれたそうした教訓は、拙著「まなざしのデザイン」では示せなかったデザインメソッドの話に近く、ファクトフルネスでの視点にも通じる。しかしその一方で政府や組織の再編に集約されがちな民主主義の議論の渦中で、置き去りにされそうなそれぞれ個人の倫理観と美意識の向上の問題をどう考えるのかを尋ねてみた。
後半の対論では、登壇者全員が抜群に頭がクリアで言語と感覚のバランスが素晴らしい。僕自身も自らの思考の方向性が間違っていないかを再確認出来ると同時に、その議論の中で不足するポイントを機会あらば質問しようと思考を巡らす。
時間切れで質問できなかったので、鈴木先生とカフェの前でバッタリとすれ違ったときに、言えずにいた質問をぶつけた。
僕が聞きたかったのは以下の2点。
今の地球規模に広がったコミュニケーションと身体性のズレの問題や、テクノロジー進化による混乱を乗り越えられるために...
・テクノロジーのアップデートではなく、人間の知覚や身体性のアップデートによって熟達したポストヒューマンをデザインし得る可能性はあるのか?
・逆に人工知能側のアップデートとして、意識に先立つ無意識を獲得出来る可能性があるのか?
前者は鎌田東二先生と僕とで今度出す対談本でも触れているが、宗教や武道や芸能が持つ、身心変容技法の可能性とつながる。
後者は、そもそも人はなぜ人であり、知性とはどこに生じるのかという、フロイト以降の人間観を踏まえた問いと接続されている。
シンポジウムや人の話を聞くときに必ず考えるのは、もし自分が同じ登壇者ならば何を発言するのか、何を質問するのかということだが、聞けずにフラストレーションが溜まることもある。
僕自身は同じ芸術でも、経済活性化や自己表現などということにはほとんど関心がなく、午後のシンポのようや実存や社会と人類の行末を巡る問いの中にアートやデザインをどう位置づけるのかに関心がある。
こうした哲学的な問いには、すぐに答えは出ないし、問いの連鎖でしかないが、目の前の安易な解決に走るよりはよほど意味があるように思える。本気で地球の行末を考えるならば、多角的にモノを見ようとする人同士で継続的に対話を重ねていくしかないのだろう。

●3月16日/16th,Mar
今日はアシヤアートプロジェクトでトークセッション。前回はファッションデザイナーのコシノヒロコさんと1月に話した。
このプロジェクトは芦屋市の支援を受けて、今日までに3回のトークをしている。
Today, I have a talk session at Ashiya Art Project. Last time I discussed with Hiroko Koshino who is a fashion designer in January.
This project is supported by Ashiya city government and we had had 3 lectures before today.

●3月17日/17th,Mar
本日はアシヤアートプロジェクトのファイナル。宮塚町住宅という66年前の近代建築で具体美術にまつわる展示、これまで行ってきた僕の講演及び川崎晃一さん、コシノヒロコさんと重ねてきた二回の対話の映像アーカイブの展示、そしてワークショップやトークなどが行われる。
第一回、第二回では聞き手として参加してきた僕も、実行委員会の皆さんと一緒にトークセッションに登壇してお話した。
実行委員長でコンテンポラリーダンサーの岡登志子さん、アートプロデューサーの加藤義夫さん、アートマネジメントがご専門の神戸大学の藤野一夫先生、元芦屋市美術館学芸員の加藤瑞穂さんと、ハナムラの5名で具体美術協会が掲げていた理念「精神が自由であること」を巡って2時間のトークをする。
そもそも文化行政とは何かという話から始まり、阪神間モダニズムとはどういうもので、それが具体美術をいかにして生んだのか、芸術が果たしている役割は何か、教育と芸術との関係、少子高齢化の中での文化芸術の意味、西洋美術と日本美術のタイプの違い、テクネーとエステティック、感性とは何か、芦屋の特質とは何か、80年後の世界に向けて今何をすべきか、芸術家の内部では一体何が起こっているのか、美術館の社会的役割とは何か、民主主義と芸術の関係など、自己との対話と他者との対話、アートとそうでないものの違いとは、など多岐に渡って話をする。
例のごとく喋りまくるが、自分の役割としては研究者と芸術家の両方の身体を持つ身として、抽象的なアーティストの内部の話を言語で分かりやすく伝える翻訳者として振る舞うように努力はしたつもり。
会場が小さくて人数は多くはなかったが、2時間をあっと言う間にオーバーして、中身も充実したものにはなったと思う。

●3月19日/19th,Mar
人にモノを教える立場というのは因果なもので、ついつい自分が何かを知っている気にさせられてしまう。
しかし本当に何かを知るというのはそう簡単なことではないことは肝に命じておきたい。
Teaching is difficult. We are tend to think that we know everything when we teach something to someone.
However to tell the truth, it is so hard to know something truly and deeply. We always have to remind it in the bottom of our heart.

●3月24日/24th,Mar
医師であり研究者であり武道家でもある佐藤友亮先生のご著書「身体知性」に、御本人からサイン頂いた。
ダマシオのソマティックマーカー仮説など知らないことだらけで、大変勉強になるとともに、拙著「まなざしのデザイン」と見つめている方向が近しいと共感する。
西洋医学と東洋医学で異なる身体の語り口の間を止揚させるには、両方の身体運用を身につけていなければ書けない。そういう意味でも佐藤先生にしか書けないような本ではないか。
近代化は「和魂洋才」の時代であったが、近代を乗り越えるには、西洋の合理的理性と東洋の身体運用の技術を合わせた「和才洋魂」が逆に必要なのではないかと考えさせられる。

●3月26日/26th,Mar
昨夜は九段下のギャラリー册での「観桜会」に招いて頂いた。僕自身は二期リゾートがこの10年ずっと那須で行ってきた「山のシューレ」に2014年に美術史の伊藤俊治先生、宗教人類学の植島啓司先生と鼎談させて頂いて以来のご縁。
今年からシューレはこの册を中心に新しい展開をしている。また那須で皆さんが手掛けられた「水庭」とその設計者の石上純也さんがこの度、第69回芸術選奨の美術部門文部大臣賞新人賞を獲得されたので、その打ち上げも兼ねての観桜会。
山のシューレの同窓会的な感じで、二期の北山美憂さん、創業者の北山ひとみさん、能楽師の安田登先生、早稲田大学の小沼先生などもお越しになられる。安田先生とも「オルフェウスの冥界下り」以降の久し振りの再会となる。小島さん、貫井さんとも嬉しいサプライズ再開。
皇居の夜桜を暗闇の中で眺めながら、安田さんの唄いを聞き、アーティストたちと語らう、一流に知的で豪華な宴で、僕自身も末席に加えて頂き光栄な時間。
二次会では場所を変えてしっぽりと。北山ひとみさん、石上純也さんともじっくりお話しする。ひとみさんとは今の世界や財界の趨勢から教育論まで、本当に久しぶりにゆっくりと話せた。石上さんとはランドスケープ論やデザイン論で盛り上がる。
水庭にはまだ訪れていないが、おそらく良い仕事をされているんだろなと想像する。建築家が手がけるランドスケープは構築的になりがちだが、きっと水庭は長期にわたり自然を受け止めるモニュネンタルな場所になるだろう。
不変のものと変化していくものとが止揚されるのが聖地だと思うが、そういう意味では水庭も人の手による聖地のデザイン事例の一つになるかもしれない。
僕自身も今モニュメントの設計案件を一つ抱えているが、そちらは逆に構築する事で不変と変化を目論む建築的なものになるのではなりそうだ。
建築家の石上さんがランドスケープ的なモニュメントを手がけて、ランドスケープの僕が建築的なモニュメントを手がけるのは奇妙だが、もはや出自や専門がどうとかいうことではない時代に来ているのではないかと考えさせられる。
そんな中では良きクライアントと良きデザイナーとの共闘によって素晴らしいものが生まれる。

●3月30日/30th,Mar
福島県猪苗代の「はじまりの美術館」での新作インスタレーション「Translucent Fukushima」の設営の数日間を終える。これから福島を後にして岡山へ向かう。
2月の末に下見に行き、このひと月で新作のプランを練って設営という今までにないスピードだが、何とか形になった。
今回は美術館の皆さんと、この数日間ずっと議論しながら、共有して練り上げていったので、まさにここでしか作れないような作品になったのではないか。
光、空間、音声、風景、手紙といった複合的な素材を使っているので、現場で体験しないと質感は伝わらないのかもしれない。
自分の中では、千葉市美術館で昨年作った「地球の告白」で考えた問いの続きではあるのだが、福島という土地で今問いかけることに意味があると思っている。
前作で問いかけた”時間に関する疑問”、そして”胸の内のわだかまりの告白“というテーゼはそのままだが、前回の地球スケールから日常スケールへとまなざしを寄せて考えた。
過去の記憶や、未来への想像に心を奪われがちな我々は、常に「いま」、「ここ」で起こっていることを取りこぼしながら死に向かっている。
震災と原発から8年経ち、過去に起こったこと、そしてこれからの先行きに対して福島だけでなく世界全体でも視界が開けていない。そんな中で「いま」、「ここ」に生きる福島の方々が胸の内に一体何を抱えているのかをしっかりと見つめてみたいと思う。
今回は「あしたときのうのまんなかで」というテーマの展覧会で、僕一人の出品ではない。現代美術のクワクボリョウタさんや、詩人の谷川俊太郎さんらとご一緒している。それぞれの表現方法に違いはあるが、全体での問いかけが意義深いものになるに違いない。
特に谷川さんの詩は僕が立てたコンセプトとかなり近いフレーズが表現されていて、この二つの作品が展覧会全体の通奏低音を奏でるだろう。
そして以前より注目していた、鉄道模型に乗せた光を使って影のランドスケープを生み出すクワクボさんの作品も、設営で今回ご一緒してディスカッション出来たことも幸運だった。
今回、多大な協力を頂いた美術館の皆さんとのディスカッション、そして福島で生まれた9歳の少年との出会いが無ければ、この作品は成立しなかっただろう。
まだあどけない少年の語りのチカラを信じて、この作品が会期中どのように育っていくのか見守りたい。
展覧会は4月6日から7月7日までの会期、場所は福島県猪苗代町の「はじまりの美術館」。もし何かピンと来た方や、お近くに来た方は是非立ち寄って頂ければ嬉しい。
詳細はこちら↓
http://hajimari-ac.com/enjoy/exhibition/mannaka.php


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