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食と身体の輪廻から

●Body in Foodを終える 
 バルセロナのグラシアに新しくオープンしたギャラリー「Souvenir」でパフォーマンスを終える。タイトルは「Body in Food」。高村聡子とのコラボレーションユニット"muzero"での公演となる。ローマ出身でバルセロナで活躍する現代アートのキュレーターHerman Bashiron Mendolicchio, PhDのキュレーションで実現した。
 パフォーマンスに向けて、玄米のみを食す七号食と呼ばれる日本の方法で、16日間かけて身体を内部から作ってきた。その方法の詳細は別の記事に書いたので、ここでは省くとしてパフォーマンスをしてみてどう感じたのかを記録しておきたい。
 パフォーマンス自体は20分弱のサウンドパフォーマンスと映像インスタレーションに同期させた演劇である。我々が食べた量の玄米をそのまま並べて見せる展示も行った。非常にシンプルな作りを取ったが非常に効果的で、そこに至るまでのプロセスの重要を理解してもらえたように思う。
 バルセロナは国際都市なので当日の観客の顔ぶれは多様だった。スイス人のギャラリスト、コロンビアのジャーナリスト、カナダのアーティスト、リトアニアのペインターなど様々な国からきた人々がパフォーマンスを見てくれた。食と身体というテーマはやはりどの人種でも共通する関心ごとだ。皆さん興味津々で終わってからも質問がたくさん飛んでくる。
 一日一食、たったコップ半分の玄米だけで本当に大丈夫かという疑問が多かった。中には自分もファスティングにトライしたことがあるが3日保たなかったという意見や、食欲をどうやってコントロールするのかという意見も飛んできた。

●食と身体との輪廻
 今回の作品でのメッセージの中心は食と身体との「循環」である。映像もその観点から組み立てている。我々は食べることでエネルギーを取り込んでいるが、食べ物は将来の身体をつくる素材であるというメッセージ。しかしそれだけではなく、我々の身体もまた将来の食べ物になるというメッセージまで持たせることにした。
 以前、このブログで「蛾の輪廻」という文章を書いたことがある。その時とテーマも同じく生命の循環である。食べ物は自然からやってきて、自然へ還る。それは我々の身体も同じだ。いつかは自然に還り、それは次の生命へとバトンタッチされる。食と身体、生命と生命は循環しながら輪廻している。そうした自然の循環のサイクルの中で一時的に我々の生命というのは立ち現れる単なる現象である。その世界観を提示したかったのだ。
 しかし実のところ我々が今生きる世界ではそういった循環として考えることは少ない。食料をたくさん生産して、たくさん消費して、たくさん体内に蓄積する。死んでも自らの亡骸を他の生命の糧として提供することはない。そうやって己の生命のみを考えて生きている人間が自然の中でいかに不自然かという疑問を投げたかった。
 以下は映像の後半の一部より抜粋。

「人間は少量の食事で生きることができる」
「もし我々がもう少し食事を減らしたならば」
「私たちの身体は変わり始めるだろう」
「そして私たちの心も変わり始めるだろう」
「今世界には」
「25億トンの穀物が生産されている」
「これは73億人に等しく分ければ一人当たり年間340kgの食料になる」
「今我々が食べている量の二倍以上である」
「我々は食料を生産しすぎている」
「しかも歪んだ形で」
「一方で世界には8億人の人々が飢えている」
「人間は食べるために生きる」
「動物は生きるために食べる」
「身体は食物によって自然とつながっている」

●マイナスの時代
 たった16日間の実験で語れることはそれほど多くないのかもしれない。しかもこうして食事を制限するのは僕自身も今回が初めてではないし、他にも多くの方が実践されている。
しかし今回は欧州という文化圏の中で問いかけたこと、そしてスペインという飽食の国で問いかけるにあたり、色々と考えさせられた。
 パフォーマンスを終えて、改めて確認したのは、時代のベクトルが大きく違う方向に向いていることである。ほんの5年も前であればこうした問いかけに反発する人の方が多かったに違いない。しかし今回は人種を問わず皆が何かを感じ、考え始めた様子だった。
20世紀はモノの生産と消費が問題であった。しかし21世紀ではそれが自然の秩序に従っているかどうかが問題だ。これまでの私たちの文明は拡大の論理しか持たなかった。しかしこれからの私たちの文明は、いかに縮小の論理を持つのか。あるいはバランスの論理持つのか。それが重要になるはずだ。それは単に文明という大きなレベルでの他人事ではない。自分自身のライフスタイルにおいても同様だ。
 我々は明らかに持ちすぎている。身体の中にも、外にも。そしてそうした持ちすぎたものが様々な問題を起こしている。そこにまなざしを向けなければ、また何かをプラスすることで場当たり的に解決しようとするだろう。
 ものづくり、まちづくり、価値づくり、意味づくり...。つくることばかりに私たちは忙しい。クリエイトすること自体は偉大な行為だ。しかし一方でいかに減らしていくのかということもまた勇気が必要な偉大な行為なのだ。
 僕自身についても全く他人事ではない。人生の前半では溜め込み、拡大し、成長することを求めてきた。しかし人生の後半ではそうはいかない。成熟し充実することは何かを捨てる中で生まれてくるからだ。自分のライフステージにおいても、明日に迎える誕生日を前にこの作品を問えたことには大きな意味があったように思える。
 

20180219
バルセロナにて

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