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オランダの超合理主義を想う

初のオランダは1月。気温は3度のスキポール空港。バルセロナは朝は9度だったが日中は20度まで気温が上がる。
スキポール空港からデルフトまでの列車の車窓から、オランダの風景の概要をつかむ。
人が海と風と格闘しながら土地を獲得してきた歴史が目の前にある。オランダで合理主義が発達するわけだ。0から海を埋め立てて土地を作るのに非合理的に進めるわけがない。
全て意図の元に置かれる超合理主義。デザインもそういう方向から発展していくと思いがちだか、そうはいかない。
合理主義で埋め尽くされるほど、それに抗う力が生まれる。だからオランダのデザインは、どこかエキセントリックで過剰な様相をしている。
陰陽で言えば、思い切り陽に振れたものが、バランスを取ろうとして陰に振れるようなものだ。これがオランダの面白いところだが、同時に非常に危ういものでもある。
スペインはバランスをそもそも取ろうとしていない。だから既にあちこちで破綻している。エゴギョウ的に捉えると、欲望の「火性」と抑制と怒りの「金性」の国だ。しかしオランダは客観的に見る「木性」が働いている。
学生の頃はランドスケープアーキテクトのウエスト8や、建築家のMVRDV.レム・コールハースなどの合理的なデザイン手法に憧れていたものだ。
しかし今では西洋近代主義文明のあがきのように見えてならない。その影を必死になって追いかける日本を初めとするアジアはさらに滑稽な感じがする。

デルフト、ロッテルダムを見て、アムステルダムに入った。ロッテルダム中央駅のリニューアルの規模には驚いた。ロッテルダムの広場も見ることが出来たが、ウエスト8が当初目指していた市民活動による"広場の一時占拠"というコンセプトはもはや保たれていないのではと感じた。広場スペースの多くは人工芝が敷かれ遊具のようなもので上書きされている。もちろんこれを占拠ということは出来るだろうが。
驚いたのはMVRDV設計のマルクトハルである。かまぼこ型の形態。中の市場空間のスケール。天井の大胆なグラフィック。外側の住居使用。どれも奇抜すぎて評価が難しい。
しかしいくつか分かったことがある。一つはMVRDVがしていることは特に奇抜なことではないということ。
市場の外側に住居を貼り付けるファンクションミックスや、万博会場のように人工物と自然を積み上げるようなデザインを10年前に見たときには驚いたが、オランダの文脈を考えれば普通のことだろう。
常に土地を獲得せざるを得なかったここでは、機能混合した土地利用など当たり前のことだ。
コールハースが言っていた空港という場所がどこにも帰属しない「ジェネリックシティ」であるという言葉も、ウエスト8の自然の合理的な読み解きも、今考えると何も目新しいものでは無かったのだと。
僕ら日本人は当初そのデザインの奇抜さに目を奪われていたが、何とも稚拙だったと恥ずかしく思う。
しかし彼らからすると特段目新しくもなく、合理主義を徹底せざるを得ない文脈から来ている。その合理主義の歪みが、エキセントリックな図象性として現れていることに素直に納得する。
オランダ人が徹底的に合理的であることは小さな理屈のなかではうまく機能するだろう。しかし人間の欲や怒りを所与のものとして、それを肯定する形で進められる合理性というのは、一オクターブ下の理屈のように思える。
そういう意味では仏教の持つ合理性の方がエキセントリックさでは優っているのではないかと思う。
ダッチモデルは大変興味深いが、日本がそれを追いかけているだけであれば、永遠に影についていくだけだろうと感じた。

2018.01.21 アムステルダムにて

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