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「アテンションを利用した主張」の困難について

オウム真理教が社会問題化し始めた頃、ある種「擁護」ともとれる主張をする知識人が少なからずいて、後に教団の危険性が明らかになるとずいぶん叩かれたものだが、あれは意図としてはオウムの擁護というよりは、「同じことが「マトモ」と言われている大企業や学校や社会全般ですでに広汎に行われているではないか。どうしてそれらに目を向けないのか。あまりに滑稽では無いか」という批判なのだと当時私は受け止めていた。

ただ、運が悪かったというか、引き合いに出した事例が結局(事後的に)極端すぎて、かえって切断操作の対象(=「自分たちはオウムとは違う。ああならないためにこそ社会の現状に適応せよ」)となってしまった。

ことほどさように、「アテンションを利用した主張」というのは難しい。

そもそもの問題提起は「アテンションが高まっている時に「立派な規範」を掲げて批判している人々は、普段から身の回りの他の対象に対しても、果たして同じ規範を適用して働きかけているのだろうか?」というものだった。しかし、その問題提起自体が、その時のアテンションを正に「利用」している。

なぜ普段から「立派な規範のアドホックな適用」問題を採りあげないのか、という話になる。

しかしもっとわかりやすいリスクは別にある。自分の主張を広汎に広めるためのレバレッジとして活用したアテンションの源泉が、当初と異なる「評価」を受け始めたとき、その源泉のみならず、それをレバレッジとして活用した主張そのものも「アテンション源泉の評価変容」の道連れになる。

そればかりか、その主張をした「個人」にまでその「アテンション源泉の評価変容」の影響は及ぶ。もはや様々な論理階層や境界線をぜんぶすっとばしてアテンションの嵐が吹き荒れ、荒涼とした風景のみが後に残る。

それを理解してなお、覚悟を持ってアテンションを利用するかどうか。


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