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鈍感力がほしい

誰とも比較せずに、誰かと比べられたりせずに、生きれたらどんなにか楽だろうか。情報溢れるこの時代は、キラキラしたものが目に飛び込んでくる。目立っているものが正義と位置付けられているような錯覚さえ起こす。

見たくはなかった。あの人の人気ぶりなんて、あの人のいいねの数なんて。
必要なのは、ただ私が好きか嫌いかってシンプルなことなのに、そんな数字に左右されてしまっていらない感情は生まれる。

うらやましいとか、いいなぁとか、なんで自分は...とか。
多分まとめると、嫉妬という感情。

結局は嫉妬なんだと思う。それまではただ好きで、キレイなだなぁと思って、面白いなぁと思って触れていたものたちが、ある日音もなく、嫉妬にまみれた憎悪に変わっていく瞬間はあるのかもしれない。あるいは、日々積み重なっていって、ある日気づくのかもしれない。

何かあったわけでもなく、足が遠のいてゆくのは、嫌いになったわけじゃなくて。単なる自己防衛本能かもしれない。ただ興味がなくなったと言い切れるならそれがいいに決まってるんだけど。

嫉妬も憎悪も溜め込みすぎては、こっちがやられてしまう。出来事など起こらなくても、頭の中で起こる化学反応が勝手にあちこちに指令を出してしまうから。そんなのが溜まりたまったら、気づかぬうちに発作なんてものが起きてしまうと思ってしまう。そんなことは御免だ。

きっと誰もが、周りの評価とか比較とか気にせず、あるがままに生きたいと願ってはいるんだと思う。影響を受けてしまいそうなことには、自ら目を瞑り、自分の欲望に興味に全力を注ぐ。
だとしたら、原始時代とかがちょうどよかったのかも。生きるために、獲物を狩る、獲物を狩れない者は食物を育てる。そんな生きるための術を追い求めている時代は、とっても幸せだったのかもしれない。

いっそのこと、山奥の小さな小屋でひっそりと一人静かに暮らしたい。仙人にでもなって霞でも食べて生きていきたいとも思ってみる。
周りからの情報が何もなくなったら、自分から生まれる言葉とか作品?とかどんな風に変わっていくのだろうか。見て見たい気もする。

そもそも、生きてく上で悩みとか葛藤とか何かに出会っていろんな感情を得て、それを表現したいとか、誰かに伝えたいとか、そんな欲求すらなくなってしまったらそれは生きていると言えるのだろうか。

何事もほどほどがいいということか。
山奥にこもって生活をしていても時々は下界に降りて、その土地の空気を吸えってことかな。

でも、きっと、どんな山奥で深い深い森の中にいても、自然は味方してくれる。まぁ、自然だからそもそも敵も味方も存在しないんだろうけど。雨が降ればこころ折れるかもしれないし、花が咲いたら嬉しくなるだろうし、季節の移り変わりは木々の葉っぱの色が教えてくれる。

そう思うと、人間界のあれやこれやには鈍感でいたいけど、自然界のあれやこれやには敏感でいたい。花が咲いたら、きれいだね!って一緒に喜びたいし、朝露に濡れても、雨に降られても風情があっていいね!って言いたい。

雲の上にでも住まない限りは、きっと何かしらの感情はいつでもうまれてくるものなんだろうね。雲の上でも、太陽は降り注いでいるかもしれないけど。

きっとみんな、どこにいたって、何かには生かされているね。きっと、出会うものすべてにね。
それって、ほんとは全部味方なのかもねーーって鈍感に感じられたら、少しは生きやすくなりそうな気がする。
巡り巡ったら、全ては自分の生きる糧となると呑気に思えたらいいのにね。


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