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社会心理学と行動経済学

                   大阪大学 大竹文雄 

 行動経済学は、経済学・心理学・社会学の融合研究である。伝統的経済学は、できるだけ単純なモデルで、経済の動きを描写しようとしてきた。具体的には、利己的で情報を最大限利用し計算能力に優れたホモエコノミカスと呼ばれる人間像をもとにしていた。経済学者が、現実の人間のことをホモエコノミカスだと考えていたわけではない。ホモエコノミカスという単純な想定をしてみて、現実の経済の動きを説明できるかどうかを考えたのだ。実際、ホモエコノミカスの想定で経済の動きは近似できる。何かの商品の品不足が生じれば、価格が上がって供給が増えると同時に需要が減ることで、品不足が解消される。こうした競争的な市場の動きは、ホモエコノミカスを前提にした人間の行動の予測から説明できる。

 では、なぜ伝統的な経済学に社会心理学の知見を融合させるような行動経済学が必要になったのだろうか。第1に、重要な経済現象で伝統的経済学だけではうまく説明できないことがあったからである。第2に、経済学の考え方を利用する目的が、経済の動きを説明するというよりも、具体的な制度設計に利用することにまで拡大してきたことである。

 第1の例としては、不況になっても賃金が低下しにくいことがあげられる。インフレが続いていた時代には、名目賃金が下がらなくても実質賃金を低下させることができたが、デフレや低インフレの時代になって、名目賃金の下方硬直性がマクロ経済にも影響を与えるようになったことが大きい。

 第2の点についての具体例としては、日本の所得税制における103万円の壁がある。103万円以上の年収になると配偶者の所得控除がなくなるので、既婚女性が労働時間調整をするといわれている。実際、年収が100万円近辺の人は既婚女性に多い。ところが、現実の税制では103万円には特に大きな壁は存在しないのだ。

 伝統的経済学では、人々が税制や社会保障制度を完全に理解していると想定してきたが、実際には、制度設計者が考えたとおりには人々が行動しない。社会保険料を企業が負担するか労働者が負担するかは、見かけの負担者が誰かという問題であって、実質的な負担をするのはどちらの場合も同じだと伝統的経済学では考えられてきたが、実際には労働者や企業の受け止め方は異なる。

 賃金制度の設計についても、伝統的な経済学では、インセンティブを高めるように成果に応じた部分とリスクを負わせすぎないように定額の部分をミックスさせることが望ましいと考えられてきた。しかし、現実には、人々は他人との賃金の比較を重視し、公平感を損なうと労働意欲をなくしてしまう。

 いくつか例示したように伝統的経済学の予測と現実の人々の行動との間のギャップを埋める上で、社会心理学の知見はとても有効である。ただし、伝統的経済学の枠組みは、かなり強固であることは事実であり、社会心理学の知見の中でも比較的取り入れやすいものは、数学的モデルに定式化されているものである。

 プロスペクト理論は数学的な定式化がされており、伝統的経済学との折衷的モデルも開発されてきたので、経済学にかなり受け入れられてきた。同様に、異時点間の選択行動における現在バイアスや双曲割引による選好の逆転も標準的な経済学の教科書に含まれている。不平等を回避するような社会的選好を人々がもつこと、利他的な感情をもっていること、互酬的な行動規範を人々がもっていることについても、そうした選好を数学的に定式化することで、経済学の枠組みに取り入れられてきている。

 社会心理学を取り入れた経済学が、社会心理学とどのような点で異なっているのだろうか。第一に、社会心理学的なインセンティブが有効であった場合に、伝統的経済学の金銭的インセンティブとは代替的な関係なのか補完的な関係なのかという点に経済学者は大きな関心をもつ。社会心理的な影響があったとして、それがどの程度の大きさであるかということも政策的には重要なテーマである。

 第二に、行動経済学における最大の問題は、政策評価の手法が明確になっていないことである。伝統的経済学においては、人々の好みは簡単には変化しないという前提のもとで、制度や政策の変更が、社会の厚生水準が上昇するのか下落するのが判断できた。望ましい政策の判断ができるところが経済学の強みだった。ところが、行動経済学では、人の好みが時間といともに変化したり、感情によって変化したり、参照点が変わるだけで変化してしまうことを認めている。例えば、現在バイアスがあるとき、忍耐強い段階の意思決定を優先すべきなのか、直近の誘惑を重視する価値観を重視すべきなのかで、政府の政策介入の在り方は全く異なってくる。選択の自由と介入のバランスをどのようにとっていくのかが行動経済学における大きな課題になっているのだ。

日本社会心理学会第 57 回大会「虎の巻」より転載) 

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