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家康と御殿場の御殿①

御殿場の御殿伝承

御殿場は、徳川家康が御殿を作ったことに由来する地域名を持つ地域です。
家康が没した直後の元和2年(1616)に沼津代官である長野久左衛門が御殿造営の継続を命ずる文書が残っており、これを徳川家御殿伝承の根拠としています。
この頃の御殿場は、小田原藩稲葉氏支配でもなく、その後の大久保氏でもない。幕府直轄の支配下にありました。
伝承のある土地には現在、吾妻神社(御殿場市御殿場)があります。御殿場高校の校門前にある御殿場区コミュニティーセンターと地続きになっている神社です。
この横と後ろ側を巡るように御殿の名残であるとされる土塁が残っています。
御殿場市史及び御殿場市史研究では、この土塁は現在の御殿場高校建物の中央ほどまで、ぐるりと方形に囲うような想定がされています。
また、周辺には「おうまや」(吾妻神社土塁を挟んで横側)、「堀前」(吾妻神社参道前、高尾山で屋台が並ぶ周辺)などの地名が残されています。

御殿の姿


小田原藩主であった稲葉正通が記した『たかね日記』にその姿が描かれているのですが…御厨を巡った記述のある、この日記。記されたのは延宝5年(1677)なのです。
御殿造営継続が命じられた時期は家康が没した直後。そこから、60年ほど経ってからの記述なのです。
これを根拠に、家康御殿の姿を再現しようという取り組みは、たまにあったようですが…
60年経った御殿は、既に稲葉氏が御厨方面巡見の拠点として使用している姿が『たかね日記』に記されています。
そして、延宝5年(1677)御殿場村の村鑑には、村が「御殿新町として成立したものの、一旦寂れ、立て直した」旨が記されています。
寂れた町にある御殿。町がさびれる中、果たしてキチンとした維持管理はされていたのでしょうか。
そもそも、家康御殿は、家康没後その造営の殆どが中止。すでに完了していた御殿も、廃止になったものが多いようです。残された御殿は、2代目以降が使用していました。
そして、『徳川実記』には御殿場の御殿の話は出てきません。
この間の御殿場の御殿に関する記述は今のところどこにもないのです。
御殿場の御殿は、御殿として維持管理はなされていなかった、と見るべきでしょう。
そして、『たかね日記』に登場する御殿と思しき建物は、「我が旅の宿は…」から始まる大変美しい情景を以て描かれています。
造営当時の面影を残している可能性はありますが、少なくとも、その時代に沿った形での修繕は行われたのではないでしょうか。
つまり、造営当時の御殿と、稲葉時代の御殿では姿が違うのではないか、と私は考えています。

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