Untitledのコピー

52. ノームコア

まえがき

 ずいぶん前の話ですが、2015年の1月、一つのデザイン仕事の依頼を受けました。

その企画のテーマが“ノームコア”でした。 その時点ではその言葉の何となくのイメージは持っていたものの、正確にそれが何を指すのか知りませんでした。
 先入観で企画を出してボツにされるのが嫌でしたので、ファッション関係の仕事をしている友人に聞いたり、ネットのブログ、記事、ツイッター等にざっと目を通したのですが、その多くが“究極の普通”とは言うものの、解釈は様々で、自分が人に説明できるほどの理解と納得はできませんでした。

 そこで友人に相談したところ”Normcore”という言葉を最初に作った、K-HOLEというグループの英語の原文を教えてもらいました。原文さえ読んでおけば、たとえこれで分からなくてもプレゼンの説得力には十分だろうと思い読んでみる事にしました。

http://khole.net/issues/youth-mode/

 幸い原文は比較的簡単な英語と魅力的なビジュアルの助けもあって、なんとか読めたのですが、読み進むうちにネットや雑誌、知人達から得た一般的な理解とは異なるように思えて来ました。もちろん翻訳の文章なので、人により解釈が異なるのは当たり前なのですが、そういった解釈の余地の広い部分ではなく、丁寧に読めば比較的解釈の幅の狭い部分でそう感じることがありました。特に不思議だったのは、一般的に”ノームコア/Normcore”と呼ばれている現象には、K-HOLEは別の名前を定義して説明しており、それは彼らが原文で”Normcore”と呼ぶものとは全く別ものと読める事でした。
 

 さらには外国の一部のトレンドセッターの言葉からは、その誤解をわざとやっている様にもとれることや、K-HOLE自身もなぜかその不一致の訂正をしないという状況も見えてきました。
 もちろんそうなるとまず第一に私自身の読解力を疑うのが当然ですが、何回読み直してもなお疑問に思えるほど原文での”Normcore”の定義と、一般的なその受容は異なるように読めました。

 Normcoreのように社会にある程度浸透した言葉は、それが始めどのような意味で定義されたかよりも、その後社会がどのような意味で受容したかのほうが大事で、むしろそちらのほうが本体だとは思います。ですがその相違を知ることは、その言葉を正確に理解するのに役立つのではないかと思いためしに訳してみることにしました。

 この文は2015年に書いたものを一部加筆修正したものになります。最初に原文訳、次に意訳の順になります。

 拙文ではございますが、ご一読頂ければ幸いです。

                 

訳文

1-1 : 要約

 ノームコアとは、K-HOLEというNewYorkの流行予測集団が“youth”という題のテキストの中で定義した言葉です。予測なのでこのテキストが書かれた時点(2013)ではまだ存在しません。
このテキストでは時代を近過去、現在、近未来の三つのに分け、近過去と現在の価値観の特徴を指摘した後、現在の時代がその価値観の結果として抱えている問題点を解決するための近未来の価値観として、ノームコアを定義しています。そのためノームコアはファッションやデザイン限定の流行ではなく、時代の価値観です。


1-2 : youthの変容


 このテキストは二つの章に別れており、まず第一章で”youth”について述べています。第一章の詳細な訳は割愛しますが、そこでは近年”youth”はage(年齢)からattitude(態度/姿勢)に変化したと指摘します。かつてoldとyouthを定義していた年代/時間の壁が、今はどのようなテクノロジーを使いこなせるかどうかになっていると述べます。そしてyouthを定義するそのattitudeはfreedomであると言います。
youth = attitude / freedom
             


1-3 : 時代の区分け


 第二章ではK-HOLEは近年を3つの時代に分けて時代固有のの価値観について述べます。 時代”A”は1994年まで(原文ではカートコバーンが死んだ日という言い方をしています。)、そこからグローバリゼーションが始まりグローバリズムが完成するまでを時代”B”、そしてグローバリズム以降の時代”C”の三つです。(しかしK-HOLEがこのテキストで扱っている規模の時代の変化は一年程度で起きるのでは無く、おそらく5年くらいかけて徐々に変わっていくと捉えるのが良いと思います。まず1994に“カートコバーンが死んだ日”というのは、’90ごろに日本のバブルが終わり、’91に冷戦が終わり、’94にカートコバーンが自殺し、’95にwindows95 が発売された辺りの5年間。そして時代”C”は’08のリーマンショック以降くらいに始まったと見るのが良いと思います。このテキストが発表された2013年はすでに時代“B”が終わり時代”C”が始まっているはずですが、K-HOLEはトレンドの予測としてノームコアに言及しているため、まだ2013年の時点はBからCへの変化の過程にあるか、もしくは既に時代は”C”なっているが時代がまだその価値観を見出せずにいるということだと思います。)

〜A〜 (’91-’95)〜 B 〜 (’08-?) 〜 C 〜

 K-HOLEはAの時代は、人々が何か新しいモノを求め、より良い選択肢をエネルギッシュに、パニック的、熱狂的に求めた時代とします。次にBの時代は、その熱が冷め、新しいモノを生み出したり、より良い選択肢を見つける事を、 未決定の曖昧さの中にあきらめた時代とします。


1-4:Mass Indie / マス・インディ


 このBの時代は新しいモノが創れないのならば、すでにあるモノをこれまでに無い組み合わせをする事で価値を生もうとします。この時代最も尊ばれるのはdifference (違い) であり、避けられるのはsameness (同じ) になります。K-HOLEはこの時代を”Mass Indie”の時代と定義します。(これはmake differenceでは無く、think differenceであり、まさにアップルの時代と見ることができます。)
Mass Indieの文化はこれまでに無かった組み合わせを常に求め、weirdness(奇異、extream)と、normalness(普通)を組み合わせてdifferenceを生み、それが飽きられて価値をなくすまで消費し、そしてまた別の組み合わせを探す作業を繰り返します。(ジージャン&イブニングドレスや、豪華なパーティを工業空間で行うなど)この時代人と違う事はスペシャルであり、クールなこととなります。“違いこそが価値である。”


1-5:Mass Indie の問題点


この”差異”を価値とするMass Indieの時代は三つの問題を孕んでいます。

① クローン。異なる組み合わせを作る為の材料は増えず、ただ組み合わせがどんどん細かく刻んで増えていくので、その結果その違いの差が分からないくらいになり一見皆クローンのようになる。

② 孤独。あまりにも違いを求めるため排他的になり、個人は狭いコミュニティのなかで個性的で、特別になりすぎた結果、共感、理解者を失う。

③ 枯渇。材料が増えない世界で、新しい組み合わせだけを増やして行くと、その違いの大きさは加速度的に小さくなり、一つの違いが“違い続けられる” 時間(鮮度)は短くなりその繰り返しに追いつけなくなる。
またWeirdnessとNormalの間の“違い”の幅が狭くなっていくため、自分自身をweirdであると感じ”FOMO”に襲われた直後に、自分をnormalと感じ”DGAF”と思うようになる。その間のベストポジションに常在する事は不可能になっていく。(FOMO : the Fear of missing out. DGAF : don’t give a fuck)


1-6 : Acting Basic


 このMass Indieが進行した結果の末期現象として、皆が細かくそれぞれに特別になり、その状況では”normal”である事が最もdifferent / special になる逆説的状況が生まれます。そしてsamenessをマスターする事が最もクールな事となります。K-HOLEはこれをActing-Basic(基本を演じる)と定義します。しかしこの表面的な単純性は、複雑さの否定であって、Mass Indie的問題の解決策にはなりません。なぜならActing Basicもあくまでdifferenceに基づいた価値観であり、Mass Indieの一部だからです。

(*一般的にノームコアの解釈とされるnormalとhardcore、そしてその訳の” 究極の普通“と、そのトレンドは、二つの極端に異なるモノ(概念)を組み合わせるMass Indieの方法論に基づいた、このActing Basic にあたると考えられます。)


1-7 : ノームコア / Normcore


そしてK-HOLEは上記のMass Indieの三つの問題を解決する次の時代の価値観としてNormcoreを予言します。下記にテキストの中のその定義を箇条書きにします。

1. 状況的(異なる状況ごとにその形を変える)
2. 一意的ではない。(意味や値が一つに確定していない)
3. 順応できる、融通がきく。
4. 確実性や、真正であるか等に興味がない。
5. 自が他と対立した際、自を固辞した上で我慢や寛容によって折り合いを付けるのではなく、自から積極的に他に感情移入して共感する。
6. 熱望が終わった後の価値観。
7. 排他的でない。
8. それはより平和な人生への道。
9. それは誰かになる為の自由を求めるのではなく、誰かと一緒になるための自由を求める。
10. “違い”に基づいたかっこ良さでなく、“同じ”に基づいたかっこ良さ。
11. それを理解するためには”normal”というものが本来存在しない事を知らなければならない。
12. それは誤解される可能性を、つながりの為の好機として利用する。それを信頼性や確実性に対する脅威とは捉えない。
13. それは消費者の選択を的外れなものと考えない。消費はただ一時的なだけであり、妥協的であり、矛盾するものとする。今日と明日で矛盾した選択をしても、それはその人を偽善者/嘘つきにはしない、ただその人を複雑にすると考える。そもそも消費行動が自己実現の手段であった事など一度もなかった。
14. かつて個性は個人的自由への道だった。しかしそれがより具体的、 詳細なものになるにつれて個人を孤独にした。ノームコアは排他的でない自由を求める。そして特別でない事の中に解放を見つけだし、順応することが親密性を取り戻すことと理解する。
15. the new world order of blankness.それはTVの中のアイドルの死んだ眼差しではなく、観る人それぞれに多様な誤解(解釈)を促すモナリザの目。
16. 退屈な無駄話に例えるなら、“昨日見た夢の話”はMass Indie的であり、“今日の天気の話”はNormcoreである。それは夢の話はどんなに素晴らしく語ったところでその人の中で話が終わる。しかし天気の話は皆に影響する。自と他のつながりを生む。
17. Normcore = non-exclusive freedom / youth



2-1 : 意訳


 ノームコアの和訳は“平均の中心”だと思います。原文の中ではnormalという単語は重要な概念として言及されていますが、hardcoreという言葉と概念は一度も使われていません。
そのためNormcore は、normal+hardcore では無く、normal+core または、norm+coreの造語と、言葉としても意味としても解釈するのが自然です。


2-2 : 平均的中心


 ノームコアは世界に遍在する様々な価値観全てに対して等距離(同一の関係性)にある価値観です。それはグローバリズムの結果として発生した、世界の価値の平均的中心です。それは平均値であり、かつ中央値であるもので、それは虚数の様な存在です。現実世界で探してもどこにも実体はありません。そこにあるのは(the new world order of) blanknessです。

*線上の全ての点から等距離にある点ってどこ〜?


2-3 : その性質

 実体はありませんが、私達は“他人や異なる文化”との関係をノームコア を中心に構築しているので、ノームコアをあえて人工的に具体化した時は、懐かしさ(既視感)と目新しいさ(違和感)を同時に受けます。なぜならそれは皆に関係する価値観であると同時に、誰もそれに属することのない価値観だからです。


2-4 : 例


 ノームコアは例えば、地理的には地球の中心のような場所であり、文化を超えて同一の関係性と影響力を持っている意味では、地球儀の経緯度線(グリッドライン)のようなものでもあります。
 それはまた日本の一般家庭の様にテレビの上にフランス人形が置いてあり、その隣に魚をくわえた木彫りの熊があって、その奥にSMAPの古いポスターが貼ってある部屋で、クリスマスをケンタッキーで恋人と祝う様な場所を成立させ、一貫性を持たず、ゆるく乱雑な、価値のおもちゃ箱の様なものでもあります。


2-5 : 機能


 ノームコアという価値観は、異物間の緩衝剤のようなものであり、それが現れる状況によって様々な形態を持ちます。それはミニマルでもありえ、マキシマルでもありえます。
 そしてそれは特定のアイデンティティー(ID)を表しません、IDは固有の局所的属性の現れだからです。しかし様々なIDを状況に応じて、単数もしくは複数を同時に内包することはありえます。
 またそれは装飾的にもなりえますが、装飾性は本来風土(地域性)の現れのため特定の風土に根ざした装飾ではなく、これも様々な地域性を状況に応じて、単数もしくは複数を同時に内包することはありえます。
 このようなノームコアの性質上、本来絶対的に共存出来ない極端に異なる価値観をも(一方を肯定する事が、もう一方の否定を意味するような)、それらに共通の“懐かしさと違和感”としてその間に存在し、それぞれの個性を認めた上で繋げ、共に存在させることができます。(しかしそれが一般社会に良きこととして認識される保証はありません。フェイクニュースもトランプ現象も非常にノームコア的なものと言えます。トランプ大統領を排他的と評するむきもありますが、彼はディールが成立すれば誰とでも手を結べるビジネスマンであり、一切の主義や思想や宗教に固執しない点ではどの政治家よりも排他性の真逆にあるとも言えます。)


2-6 : その受容と誤解

 ノームコアの“究極の普通”という訳と理解は誤解であり、それはMass Indieの末期現象としてのActing-Basicです。
 しかしここには二重構造があり、ノームコアを誤解してMass Indieの価値観で“ノームコア”という言葉と概念を消費する現象それ自体は、他者と”繋がるためには確実性を放棄して誤解を好機と考える”という、ノームコアそのものです。ネットや雑誌にあるノームコアの様々な解釈に対して、K-HOLEが訂正をせず異なる解釈を放置していることからもそれが伺い知れます。この誤解は、理解としては間違っているが、現象的には正しいと言えます。



2-7 : パラダイムシフト?


 もしノームコアが本当に次世代の価値観であるのならこのまま消費されて終わることはないと思いますが、もし一時の流行として終わるのであれば、所詮ノームコアもMass Indie的な現象だったと言う事だと思います。
 はたしてノームコアがこれまでにもあったような一過性のトレンドの一つに過ぎないのか、それともパラダイムシフトになるのかは分かりません。もしノームコアがMass Indie的な現象とは異なる可能性があるとすれば、それはたしかにK-HOLEがいうようにノームコアはグローバリズム以後を前提とした最初の価値観だと言う事です。
 

 Mass Indieの時代はグローバリゼーションの進行する時代であり、世界の様々な価値観はまだそれぞれに独立していられました。それは個々の価値観の内では両極端なもの(エッジ、端)が存在できたということです。weirdnessとnormalの両端が存在し、その中間にdifferentやspecialが成立しました。しかしインターネットとグローバリゼーションの浸透は、全ての価値観をつなげて端をなくしてしまいました。
 

 以前はdifferentでspecialと見えていたものが、どこか別の場所ではありふれた存在であることを暴露してしまいました。その円状の価値基準ではどこもがdifferentでspecialであり、そして凡庸です。
 今日奇跡的に出会って感動した大発見をググって見れば、それがはるか昔から存在する誰かにとっての当たり前だったりします。そのような時、Mass Indie的な価値観では“今、ここ、身体”という一回性の価値を評価できず、まるでもうdifferentもspecialもなくなってしまったように見えます。それがどこかではありふれた、誰かにとっては当たり前の情報であったとしても、“今性、ここ性、身体性”という一回性との接触が、当事者個人にとっては十分に確かな意味と価値を生むことをMass Indie的価値観は評価することができません。

 かつて一億総中流の、中間層の厚い社会の中で埋没しそうな自己をIdentity crisisから救うために、人々は”違い”や“特別であること”を求め、皆がそれを手に入れました。しかし今度はその“違く、特別であること”によっ て人々は孤立し孤独になり、Identity crisisに陥っています。

 この二つの事はグローバリズム以後、Mass Indie的トレンドセットがこれまでと同じようには機能しなくなると推測するには十分に思えます。


2-8 : まとめ


 大雑把にいうと、マス・インディは特別になりたい人が、”違い/差異性”を求める価値観であり、ノームコアは特別になった人が、”つながり/同一性”を求める価値観といえます。
 K-HOLEが予測したのは、違いを求めるMass Indieの価値観の行き着くさきに、人々が皆、特別かつ凡庸になり、そして個人的幸福は見いだせず、ただ孤独になっただけの社会を迎えた時にはつながりや同一性が価値になり、共感を多く集められる人がカッコいいという時代がくるということだと思います。
 Mass Indieの最終形態は、皆が“違い”を手に入れた社会では“normal”であることが最後に残された唯一の”different”と”special”いうActin- Basicです。しかしこれもあくまでMass Indie的価値観であり、求めるものは差異性であり特別性、differentやspecialです。
 そしてその次に来るノームコアという価値観では、皆が“特別”であり“凡庸”であることが前提となった結果、人々は孤立し孤独になり、“つながりや同一性”を求めはじめます。このActing-Basicとノームコアは本質的に真逆のことですが、一般的な理解では混同されており、それがノームコアの分かりづらい原因となっています。
 穿った見方をすれば、これらが混同されたのは、マス・インディ的なトレンドセッターが、acting basicのトレンドを、名前がキャッチーだからという理由でnormcoreと呼び、さらに本当のnormcoreはつながりさえ生まれれば、誤った解釈をされようと頓着しないので、その混同が広がったと推測できます。
 またマス・インディとノームコアの対比が、“物質と関係性”の対比に例えられる場合がありますが、これは少し違う様に思います。
 まず上記の通りマス・インディとノームコアには“違い”と“つながり“という対比があります。これらは真逆の方向性ではありますが、共に他者や社会との関係性についての事です。
 マス・インディは”違いや特別”という関係性を手に入れる為に、モノを 使いました。それであればノームコアも同じように“つながりや共感”とい う関係性を手に入れる為に、モノを使うことは可能に思えます。



さいごに


 最後に、『現象』と『理解』について。本文の文脈においては、『現象』は“ノームコアという価値観”を指し、『理解』は“本文またはK-HOLEの原文”を指します。

 現象は三次元的で、その理解は二次元的です。一個の石を“現象”とするなら、その石を絵に描いたものが“その理解”です。理解とはある一つの視点からその現象を観察したものであり、理解には必ず死角があります。どんなに丁寧で誠実な写実的描写も論理的な無矛盾の内に現象の全容を捉えることはできません。
 抽象画でいいのならもうすこし良いところまでいけるかもしれませんが、その場合複数の視点を持ち死角を消す事は可能ですがその理解は論理的な矛盾を孕み、あまりに詩的に過ぎるかもしれません。 世界地図のようにそもそも三次元的存在を二次元に落とし込むことに無理がある為です。
 仮にノームコアという現象が存在するとしても十中八九、本文もK-HOLEの原文もその全てを説明できてはいません。良くて“言及した事は正しいが、それ以上の要素がある” ですが、おそらくは“言及した事の一部は不正確または間違っている上にそれ以上の要素がある”だと思います。
 K-HOLEもノームコアを社会の観察から予測しただけであり、ノームコアを作ったわけではありません。時代の価値観としてのノームコアが存在するならばそれは自然発生的な現象のはずです。

 そしてもしノームコアがK-HOLEがいう様に一時代を代表する価値観なのであれば、それは今後少なくとも数十年にわたって、服飾はもちろん、建築、アート、音楽、産業デザイン等の文化、そして政治、経済、社会など多くの分野で人々に影響を与えると考える事ができます。

                 

                 2015/9/5th (一部加筆修正2019/6/2nd )

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