バーチャルYouTuberは「演者のいる初音ミク」のような“コンテンツ”

バーチャルYouTuberって、要するに「“それ自身を演じる人”がいる初音ミク」のような存在だと思うんです。

人格を持った初音ミクではなく、演者のいる初音ミク、という解釈が、今回の肝となるテーマです。

架空の人格か、実在する表現者か

そのままやないかい、と思うじゃないですか。でも、ここで重要なのは「演者の存在」。

初音ミクはバーチャルアイドルで、電子の歌姫です。それはどこまでも架空のキャラクターであり、アニメに登場するヒロインのような、ここではないどこかに存在する人格です。そこに「現実世界の誰がしか」が「人格を演じる」余地はありません。

その一方でバーチャルYouTuberには、「中の人」がいる。それは声や演技という意味以上に、「人格の表現者」という価値が付加されているわけです。

では、バーチャルYouTuberと一般的な生主、配信者とはどう違うんでしょうか?

キャラクターはコンテンツ

この二者を比較すると、「ガワを被っただけの生主」という言葉がよく聞かれます。しかし、それは配信単体での評価でしかありません。

バーチャルYouTuberと一般的な配信者の決定的な違いは明らかで、「配信を行っている人間と、配信に載っているキャラクターが異なる存在として扱われている」ことです。

ここで、最初に言ったことを思い出しましょう。バーチャルYouTuberは、「“それ自身を演じる人”がいる初音ミク」のような存在である。

初音ミクはコンテンツです。多くのクリエイターが初音ミクを題材に楽曲、イラスト、物語やゲームといった作品を作り、発表する。あくまで初音ミクはそうした創作的活動のテーマであり、一方でそうした創作がコミュニティに共有されることで、ある意味内輪ノリのような“統合的存在感”が生まれだす。

そこにいるのは、「初音ミクという架空のキャラクターと向き合う、一人ひとりのファン、クリエイター」の姿です。

そう。

バーチャルYouTuberとは、「初音ミクの皮を被った生主」ではなく、「演者によって表現される架空のキャラクター」。

それが今回の主題です。

演者も一人のクリエイターであり、
ファンもまた一人のクリエイターである

この二つの視点の大きな違いは、バーチャルYouTuberの主体がどこにあるかという解釈です。

主体が配信者にあると考えた場合、あくまで配信内容は従来のライブ配信と変わらない文化を引き継いでいるでしょう。

一方主体がキャラクターであると捉えると、配信はあくまで「演者という一人のクリエイターによるキャラクターの表現」であり、それ以外にも、ファンアート、イメージソング、ショートショートといったような多くの作品によって、統合的に作り出される存在感こそが「バーチャルYouTuber」であると言うことができるわけです。

では、結局バーチャルYouTuberってどっちなんだ?

そのどちらの魅力を持つものが今のバーチャルYouTuberというコンテンツなわけですね。

演者とキャラクターは異なる存在

こうした視点を両立させる上で最も重要な解釈が、「バーチャルYouTuberという架空の存在と、その演者は異なる存在である」ことを認識することだと思っています。

あくまで「キャラクターを演じようとする」以上、中の人の存在は暗黙の了解でないものとされがちな昨今ですが、しかし私は逆に、それを切り分けることこそが「バーチャルな人格」という価値を正しく認識できるものだと思っています。

ここまで抽象的な話をひたすら展開してきましたが、ここで具体的な例を上げたいと思います。

樋口楓の言う「顔はかわいい」。

月ノ美兎の言う「かえみとてぇてぇ」。

こうした「ライバー自身」の価値観を紐解くと、「ライバー自身がもっとも、自身と自身が演じるキャラクターを同一視していない」という解釈が見えてきそうです。

もちろん、千差万別と言えばそれまで。バーチャルYouTuberに定義はないし、それがキャラクター主体なのか、生配信主体なのかは、配信者やプロデューサー、そしてファンの空気が作り上げるものでしょう。

良くも悪くも「ファン」という存在に大きな比重を置く、現在大隆盛を極めるコンテンツ「バーチャルYouTuber」。

それを「先端技術による変身願望」と捉えるか、「ネット最先端のエンターテインメントコンテンツ」と捉えるかは、あなた次第です。

おしまい。

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