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特大ブーメラン思考

魚やネズミや草は繁殖をするため、子孫を増やすために生まれ生きる。決してこれらを下等とは言わないが、では人間は?動物的に言えば子孫繁栄だろうがこれを他の人に聞いたらなんと答えるだろうか?「なにを目的に生きているの?」と友達に行くことを想像しただけで肝が冷える。あくまで一般的かつ個人的な私の意見だが、「普通」に暮らしているとすればなにか好きなことをするために生きる、またはなにかor誰かのために生きる。オタクの私から言わせると推しのために生きるとなるところだが実際は違う。違うと言うより分からない、といった方がいいだろうか。

ここで私のnoteの最初の文を読んでわかる通り私は文章力や思考も遅ければ学歴が低い。だからいろんな隙間がありすぎ文でになることは御了承いただきたい。そんな私だがここが私の心の放流所なのだ。そして心配性でもあるのでこの様なことを綴っている。深夜で家のどこかでもの音がすればハエたたき(武器)をもって点検して回るほどだ(笑)ここは笑っていいところだぞ。

無駄な幅をとったが話を戻すと私は何故、なんのために生きているのか。ということが分からないからだ。今の私の感覚だと「生きている」というよりも「生かされている」の感覚に近しい。お金を稼いてるわけでもない。家事をする訳でもない。ただ病院に通い好きなこと(オタク活動)をさせてもらっているだけだ。とっくに成人しているので世にいう親のスネかじりというやつだ。正直今月来月も推しのイベントや物販があるが今「大きい病気で余命1ヶ月」と言われても「そうか」と受容できるぐらいには未練もない。だってこの先の方が私にお金がかかるし親の負担も減る。それにもう社会に復帰してる自分が想像できない境地に来ているから。これはよいことなのだが親は私に対してとても寛容で働けとは言わないし(でも心の片隅には絶対働いて欲しさがある)、私が健康でいてくれることが1番だと言ってくれた。言われない優しさに漬け込むニートと言われても仕方がない。たが私は社会と日常生活に対して平均以上に恐怖や緊張を持ってしまっている。好きなことが全てその不安で上書きされてプラマイゼロどころかずっと赤字生活を送っている。

誰かのために生きる、なにかのために生きるというよりも生きることのために精一杯なのだ。私の社会、日常生活への不安は後にnoteに記そうと思う。なんのために生きるなどと考えている余裕はない。ただひたすら目の前で起きていることに対処にてんてこ舞いで私の不安解消受付所は常に2時間待ちだろう。ここで少し倫理的なところに触れる。命は大切にするもの。命あってできること。それには大変感謝している。産んでくれてここまで育ててくれた親にも感謝する。そしてその生まれた命は大切にされる。自分もそうだが他人からも大切にされる。つまり自分が大切にしていなくても他人や周りの人間は大切にするのだ。もしかしたら「社会的、倫理的に大切にせざる負えない」のかもしれないが。そしてその命行方は?いくら自分が大切にしたくないとしても周りは私をベッドに縛り付けてでも大切にするだろう。公共機関なら尚更だ。ここが私には納得のいかない点なのだがこれはこの国では一生許されそうにないので諦める。私の友達が自分の命を大切にしなかったら…と考えると特大なブーメランが刺さるがこれは単なる私の中では大切にして欲しいというエゴだ。説得力もないもない。だからこそここに綴らせてもらった。

そんな私はこの間の台風に備えに備えて生き残ろうと防御行動をとってしまったのだから人間は実に難しく時に単純だ。


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