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近距離ボウガン

こんにちは?こんばんは?この時間はどっちだか分からないので両方で記しておく。

特にこれと言ったオチもないというか書きなぐりなので御容赦頂きたい。現在精神病院に通っている私だがこれと言った病気とは診断されていない。これがどれだけ苦しいかを今回は綴っていこうと思う。

私は痛みによる刺激は大変弱いのだがメンタルは強い、というよりも鈍感らしい。自分よりも大変な人は山ほどいる、だから私なんて病院に通うほどではないと何回も思い病院に通うのをやめようかと1ヶ月ぐらい行かなかったことがあった。そして悪化したので自分の判断で大丈夫と思い通うのをやめるのは大変オススメしない。私的な思いではある。

物心着いた時から私の母は嫁姑関係が悪かった。姑が私の父を溺愛していたため割と嫌がらせらしいものを受けていた。それを聞き母の心をリフレッシュさせるのが私の与えられた「役割」だった。また父と祖父(父方の)の関係も悪く、祖母と祖父の関係も悪かった。祖母は糖尿病と腰が曲がってしまていたので十分な生活が出来ずにいた。それを祖父が毎日インスリンの注射をし面倒を見ていた。祖父は祖母の面倒を見るのが嫌でよく罵声を浴びせていたり、今とあっては恐らくDVに当たるようなこともしていた。その事を知っている父はもちろんいい思いをする訳ではなく祖父と父もよく罵声を浴びせ合い喧嘩をしていた。そんな中どの喧嘩にも属さない私に母が愚痴を話し、家族3人で入れば父からも祖父の愚痴がぽろっと出る時もあった。この頃から私は家族の「緩衝材」として使われていた。私がいる時は祖父祖母父は喧嘩はしないからだ。そんな中私は「すくすくと立派に」育ち気づけば幼稚園生から高校生まで育った。これが普通だと思っていた。この頃から私は母のため、家族のためを第一に考え今思えば自己犠牲の精神という大樹が出来上がっていたのかもしれない。だって私がいれば母も父も祖父も祖母も喧嘩はかないし、私がストレスを受けることもないから。


そうして育った私は進路も就職も親のためを第1に考え選んできた。祖母はもう亡くなり、私と母父で引越した。自分のやりたいことなんて浮かばなかったし、私は「そういう役割ではない」と思っていた。

その結果が大学はギリギリ卒業式卒業式にはでない就職もしない1回職についたがストレスで過呼吸になりやめニートだ。私の育った家庭は「普通」だと思っていた。だから全部私が悪いと思っていた。病院に通うまでは。カウンセリングを受けるうちに自分の家庭は「普通」ではなかったことに気づいた。しかし約20年間も「私が頑張らなければ、支えなければ、気を遣わなければ」という考えが染み付いているので簡単に取れるはずもない。病気だと分かれば病気だからというシールを自分に貼れるがそれもないため2年間カウンセリングしているが全く取れない。

自分に貼れる「病名シール」(そんなもの存在しない)がない故の自己責任、甘え、本当は病院に通う必要が無いのではないかとずっと思っている。ただ甘えで親のすねをかじっているだけなのかもしれない。それを言う度にカウンセラーに否定されるが私はひねくれているため「それはお前がカウンセラーだから否定するしかないんだろうよ」と心の中で毎回呟いている。ちょっとお分かりいただけたら良いのだか最近私の文と口調が荒れているのは回復の兆しがみえない焦りからであると考えている。合っているかはわからん。

病院にいつかはよくなるとも言われず、具体的な病名を聞いてもはぐらかされ、正直もううんざりしている。病名もつかない「役立たず」でしかいられないのならどうしたら良いのだろうか。心は視界はクリアで場所も分かるが足元の道途絶えている。そこを私はただ前を見るのではなくうずくまってたまに後ろに生い茂る草木の葉っぱをいじっている。次第に私の座っているところが崩れるのが先か私が道を建設するのが先かはたまたそこから大ジャンプして目的地に着くのか、自分から谷底に落ちるか

どうなることやら



最後に

自分が結婚して子どもが出来た時にはそうならないようにしようと思うが結婚出来る気もしなければ仕事につける気もしないのでそろそろ人間をやめたくなったので急遽カウンセリングを予約した。さすがに3週間半開けてはしんどすぎた。ネガティブ思考が止まらない。

よし、今日も元気に認知行動療法とスマホゲームをしよう。

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