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著者が書いていて楽しい本は、面白いに決まっている!

先日発売された『人生に「意味」なんかいらない』の著者、池田清彦先生が次のようにツイートされていました。

書いていて楽しかったと仰っていただけるのは、編集者冥利に尽きます。
「怒る人が一杯いるだろうな、と思うのも結構楽しいのです」とありますが、私も毒にも薬にもならないような本ではなく、良くも悪くも、読者の心を刺激する本をつくりたいので、本書の編集は楽しいものでした。

さて、以下は、本書の冒頭に記された「まえがき」もとい「私が「人生に意味はない――まえがきに代えて」です。長いので、今回は前半部分だけを抜粋して掲載させていただきます。
少しでも興味を持った方は、ぜひチェックしてみてくださいね。


私が「人生に意味はない」と考えたわけ―まえがきに代えて

「意味という病」の始まり
 人生に意味はないと言うと怒る人がいるのは承知している。私の人生には意味があると信じている人が多いからだろう。しかし、個々の人が自分の人生に意味があると思っているからといって、人生一般に意味があるとは限らない。この2つは別の事柄だからだ。
 ところで意味とは何だろう。手元の広辞苑で引くと、
「1 ある表現に対応し、それによって指示される内容」
「2 物事が他との連関において持つ価値や重要さ」
 と書いてある。1はイヌやネコといった指示対象を持つコトバの意味のことだ。
 たとえばイヌというコトバは音声言語としては「i」と「nu」という音の組み合わせであり、文字言語としては「犬」「いぬ」「イヌ」という字で表される。音声言語や文字言語自体は単なる記号であるが、この記号が指示対象を持てば、それはイヌの意味となる。すなわち、イヌの意味とはワンワンと吠える四つ足の動物である。
 コトバが指示対象を持つ場合、コトバの意味は割合にはっきりしている。ネコやライオンを指して「あれはイヌだ」という人はコミュニケーションが成り立たない人として、共同体の言語システムから排除されるからである。
 幼児がコトバを覚えるときのことを考えてみよう。幼児に接しているお母さんなどの人は、イヌやネコを指して、「あれはワンワン」「あれはニャンニャン」と教えるだろう。
 幼児はこれらの動物の姿を頭に刻んで、「イヌ」や「ネコ」の概念を頭の中に構築するはずだ。身のまわりのイヌやネコしか見たことがない幼児を動物園に連れて行くと、オオカミを見てもジャッカルを見ても「ワンワン」と言い、ライオンやトラを見て「大きなニャンニャン」と言うだろう。まわりの大人がそれを聞いて、「あれはオオカミと言うのよ」「あれはライオンと言うのよ」と教えれば、幼児は自分の頭の中の概念を修正して、「オオカミ」や「ライオン」のコトバの意味を理解する。しばらくすれば「ワンワン」のことを大人は「イヌ」と呼び、「ニャンニャン」のことを大人は「ネコ」と呼ぶことも理解するはずだ。
 幼児はどんどん成長して、そのうち指示対象がはっきりしない、あるいは指示対象がないコトバを覚えるだろう。「国家」「正義」「平和」などだ。「人生」もこういったコトバの1つだ。
 指示対象を持つコトバに慣れ親しんでいる人は、少なからぬ確率で、コトバは何であれ、誰にとってもほぼ同じ意味を持つという幻想にとらわれてしまう。「意味という病」の始まりである。
「人生」というコトバは、指し示す具体的な対象を持たないので、このコトバを聞いたときに頭の中に思い浮かべる想念は人それぞれ異なる。もし「人生」が具体的な対象を指し示すコトバであれば、お互いに「あれは人生かな」「あれは人生じゃないよね」と指示しあって、同じ対象を指すコトバとして収斂してくるだろう。
 しかし「人生」というコトバはそうではない。ところが、コトバは何らかの対象を指し示すはずだと信じていると、指示対象が外部世界になくとも、「人生」はある同一性を孕んだ概念を意味するに違いないというドクサ(臆見)にとらわれてしまう。
 人間は優れて社会的な動物であり、幼児は独りでは生きていけず、両親などの大人に助けられて育つ。そのプロセスで、社会の習慣や価値観を覚えて、社会から疎外されないようにふるまうようになっていく。最初はただの模倣であって、大人の真似をすればほめられて楽しいというだけで、そこに何らかの意味があるわけではない。ここでいう意味とは、冒頭に述べた広辞苑の2の解釈、すなわち「物事が他との連関において持つ価値や重要さ」のことだ。
 物心がついて自我が芽生えるようになると、「人生」を他の概念と結びつけて、その価値や重要さを考えるようになる(まあ、私のようにそうならない人もいるけれどね)。「人生には何らかの意味がある」という病気が発症するわけだ。
 多くの場合、意味の内容は、この人が育った共同体の価値観に沿ったものとなるだろう。現在、ウクライナとロシア、ハマスとイスラエルが戦争状態にあるが、例えば、ハマスの過激派の人生の意味は「己の命を懸けてもイスラエルを倒す」ことであり、イスラエルの過激派の人生の意味は「ハマスを殲滅」することにあるわけで、これでは戦争になるのは避けられない。
 日本でも、太平洋戦争の末期には「神風特攻隊」という自爆攻撃が行われたわけで、特攻機を操縦して死地に赴いていた若い特攻隊員の胸中には「己の人生の意味は何なのか」という問いが渦巻いていたのかもしれない。あるいは「己の人生の意味は国のために死ぬことだ」と固く信じて(あるいは信じたふりをして)、雑念を振りほどいて敵艦に突入した人もいたかもしれない。
「人生の意味」が「死ぬこと」と言うのは矛盾していると思うけれど、何をもって「人生の意味」と考えるかは人それぞれなので、そういう人がいてもおかしくないが、「人生の意味」が千差万別ということは、不変で普遍な人生の意味なんてないという何よりの証である。

意味にとらわれた人の症例や副産物
 現在の日本には、ハマスの過激派や特攻隊員に比べれば、のほほんとした人が多いけれども、多くの人が「人生には意味がある」という病に罹っている点では選ぶところがないような気がする。
 親や学校の先生は、子どもたちに人生の目的を押しつけようとする。素直な子どもはそれに誘導されて、児童生徒の頃は一所懸命勉強して、一流高校から一流大学に入ることが、とりあえずの目標だと信じ込まされる。こういう人の中には一流大学に入った途端に目標がなくなって、虚脱様態になる人がいる。かつて5月病というコトバが流行ったことがある。受験勉強を勝ち抜いた人が落ち込む、「意味を求める病」の一つの症例を表すコトバである。
 就職をして働くようになると、今度は会社の中で出世をすることや収入を増やすことが人生の意味となる人がいる。こういう人が挫折をすると、本文で詳述するが、いわゆるミッドライフクライシス(中年期の精神的な危機)に陥って、最悪の場合は意味のない人生を生きていても仕方がないという思いにとらわれて、自殺しかねない。
 人生には意味があるべきだと思い込むからそういうことになるのであって、「人生には取り立てて重要な意味などない」と思えば、今一番楽しいことをすればいいわけで、自殺をする選択はなくなると思う。
「人生の意味」は世間に流通する物語であって、生きる方便として適当に利用するのは、別に悪いことではないけれども、マジに信じるとろくなことにはならない。「みんなの幸せのために尽くすのは素晴らしい人生だ」「地球の環境を守るために努力するのは素晴らしい人生だ」「日本の発展のために尽力するのは素晴らしい人生だ」とか言ったプロパガンダはみんな話半分で聞いたほうがいい。少なくともこういった言説に普遍的だったり超越的だったりする価値はない。
 自分が信じた人生の価値を絶対的だと思い込んだ人の最大の欠点は、自分の思い込みに反する人をあたかも人類の敵のごとく攻撃することだ。あるいは自分の信念に沿うような行動をしろと他人に対して強要することだ。
 たとえば、旧統一教会は信者や信者の知人に高価な壺を売りつけるという阿漕な商売をしていたが、新興宗教の熱心な信者は自分の信念を他人に押しつけることを善行だと思っているので、こういう人にはなるべく近づかないことだ。
 自称・環境保護運動家の中にも、自分の信念に反する行動を悪の権化だと思っている人も多くて、結構閉口する。有名なのは「シーシェパード」で、クジラを捕獲する人に対してはどんな手段を使って攻撃してもいいと考えているようで、端的に言えばテロリストだ。「人生を賭けてクジラを守る」との本人が素晴らしいと信じている物語の先に待っているのは、テロというのも皮肉な話だ。
 最近も、アサギマダラに油性マジックでマークをして渡りの研究をしている人を、生物虐待だと口を極めて罵っていた人がいたが、意味を求めるというよりも、この場合は「正義を求める」という病がこじれると、ここまで惨くなるという典型例で、救いようがないな。他人の楽しみの邪魔をするのが人生の生きがい、という人が何だか着実に増えているような気がして、これも「意味を求める病」の副産物だ。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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(編集部 い し く" ろ)

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