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ポジティブの暴力

とりあえず良いこと言っときゃ安全感がある。

正直そんなに格別おいしいわけではない食べ物でも、誰かがおいしい〜と幸せそうに言った瞬間に、場の空気はそっちに支配され、別に普通じゃね?と思った人が悪者みたいになる。
おいしいの同調圧力。

犬かわいい、もそうだ。
犬も猫も子どもも可愛がれた者勝ちで、守るべき彼らのことを可愛がるほど社会と繋がることができるけれど、犬も子どももうるさいから無理、と言った瞬間「なんで??かわいいじゃん!!」と非難を受け、社会から遠ざけられていく。
子どもが苦手なあの人ももしかしたら、子どもの頃に自身が守られなかったことでそういう態度をとらざるを得ないだけかもしれないのに。
(ちなみに私は動物も子どもも好きです、なんかすいません。)


苦しい現実か、曲がった幸せか

中高とも冷笑文化の中で育った私は、大学の優しすぎる環境に少し居心地が悪くなる時がある。

今までは何か行動を起こそうとすると必ず誰かが現実を見せつけに論破しに来て、これもダメだ、あれもダメだと行き詰まりながらも結果的にすごいものを生み出すエネルギーになった。
一生分かり合えないしずっとは一緒にいたくないけど、何か本気でやるとなったら一緒にやりたいし一生定期的に会いたい仲間ができた。

しかし大学生になってから会う人たちは、みんなもっと幸せに生きるのが上手い。

別に頑張りすぎなくたって、そこらへんに転がってるいいことのかけらをかき集めれば幸せになれる、ということを彼らは知っている。

ずっと頑張って高い成果を目指さないといけない、と思い込んでいた私にとって、素直でポジティブな彼らから学ぶことは多かった。少しずつ人のことを信頼できるようになったし、自己を破壊してまで頑張る必要はないんだと気づかせてくれた。

こちらに来て、ありえなさすぎる夢を語っても誰も否定してこないことに拍子抜けする。
(受け入れてくれたことに安心すると同時に、後ろに引ききれなかったおもちゃの車みたいな加速度になる。)


でもなんで後ろめたいんだろう

幸せの感じ方を学んだ私は同時に、根本が冷静な自分自身に対して傷つくようになった。

どんどんポジティブになってみんなと良い関係を築く方面に努力していけばより幸せになれることは頭では分かっているのだけれど、なにかがストッパーをかけ続けている。

それはたぶん、嫌な現実が見られなくなることへの怖さだ。
大人になって、どんどん自分の幸せが選択できるようになって、ネガティブな感情に対して見て見ぬ振りをすることができるようになってしまう怖さ。

かつて感じた寂しさも、ポジティブの暴力によって取り残されている人たちがまだまだたくさんいるかもしれないという現実も。

自分が幸せにならないと他人を幸せにさせることができない、というけれど、この現実を無視して本当に自分は幸せになるのだろうか。

大人になるのが怖い。


どっちもとれるといいな

この葛藤に対する解決法はまだわからない。

けれど少なくとも、今後自分が幸せになるための選択をしていったとしても、今の感情とポジティブの押し付けが人を傷つけるかもしれないということを忘れないような大人になりたい。

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