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天才であることなんて平凡だ

僕が文化服装学院に行っていたときに、一番カルチャーショックを受けたのが「天才がたくさんいたこと」だ。僕は二部服装科という夜間部にいた。夜間部は昼に働いたり大学に行きながら来るので、当然カリキュラムは昼間部の学生より詰め込み教育だし、内容も薄い。

しかし夜間部でさえ、学年に数人かは「すげー!なにこれ」という物を作る人がいた。それが昼間の専門学生や大学院の生徒も合わせるともう天才だらけである。

毎年の卒業ショーや学院長が選ぶ賞の作品なんか見ると毎年びっくり。それに、文化服装学院だけでこんな感じだ。日本の他の服飾学校や、まして世界をいれたら天才だらけだろう。それも年単位で。自分の頭を逆さまにしてぐつぐつ煮たとしてもあんなデザインや発想は思いつかないような素晴らしい作品が毎年生まれる。

天才はどこへ

しかしどうだろう、装苑賞というファッションデザイナーの登竜門といわれる伝統あるショー、いまだに名前が出てくるのは数十年前の華やかな時代を彩った方々ばかりだ。悔しい。あんなに天才だらけなのに、天才たちはどこでなにをしているんだろうか。
もちろん、それには時代の流れに伴ったファッションの価値の変化やファッションデザイナーを取り巻く
業界の変化など色んな理由があるのだろう(なんか難しそうだから深くは断言できない)

僕がこの目で見てきた体験として言えるのは「天才であることすら平凡」だということだ。才能があるやつは何百人、いや何千人もいる。もはや才能がうんぬんではない世界なのかもしれない。

平凡を極めることのほうが、天才であることより価値がある

じゃあ何が大切なのか。これは僕のブログなので勝手に言うけれど(笑)結局、「誰に何をどう届けたいのか」と「持続性があるのか」だと思う。
自分の作りたいものを作るアーティスト思考だけでやっていけるのは天才の中でも本当に一握りだし今の時代にそんな人を見たことない。いるの?あの川久保玲ですら「私はビジネスウーマンよ」(ほんとポジショニングが上手いぜあの人)と言っている。

僕は天才じゃないので、平凡を極めていきたい。平凡を知り平凡であることが何よりの価値。平凡故に見える世界があり、それは天才には見えない世界だ。そして世の中の多くは平凡な人なのでその人達にとって価値がある。

僕は今度、2年前に卒業した文化服装学院で特別講義をする。これまでも服飾系の大学や文化の大学院ではお話させてもらったことがあるが、自分の出身校である文化服装学院でさせていただけるのは少し感慨深い。
僕も今まさにやっているところだから「答え」なんてわらかないけれどべらべら話すより「卒業して2年でここに立っていること」が時代の変化の証かもしれない。
自分がすごいとか自慢したいわけではなく、僕も僕を大局のひとつの要素としてみている中での見解だ。

自分のやってきたことや知識をどんどんオープンにして、僕も学び、全員で変えていければいいというだけだ。


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