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物を買うたびに「意味」を求めすぎるとちょっと疲れちゃうね

(記事内、自分のポジショントークっぽいところは有料にしています)

SNSやクラウドファンディングの普及により、ものづくりの背景が消費者側に伝えることができる。それを受けて消費者側も製作者の動機や意図を知ることができる。

様々な選択肢の中から自分の暮らしや価値観にあった物を選ぶことができるようになった。これって最高だ、時代バンザイ。

当然、自分が深く感銘を受けて選んで、購入したものには愛着が湧く。大事にする、幸せな気持ちになれる。僕も絶対そう思う、そうしたい。

けれども、物を買うたびに「意味」を求め愛着を持ちすぎるとちょっと疲れちゃう。

まして自分の専門外の物について意味を求めようとしすぎると購入までに時間がかかる。知識もないのでそこから調べないといけなかったり。

生産背景とか読んで理解はできるし、大切なことなのはわかるし、熱い思いを伝えてくれてるのも素敵だ。だけど、そんなに時間もないんだ。価格.comとAmazonのレビュー見て適当に買ってる時もある。

あと思ったけど、そもそも「本当に純粋に絶対的に自分が選んだ」と言えるものってそんなないかもな。やっぱり何かしらに影響を受けてる。

直感的な「お、これいいじゃん!買お〜」がなんだか
「何も考えてないダメな人」みたいだ。

「愛着を持つこと」と「意味を知ること」は必ずしもイコールではない気がする。直感だけとその場の選択肢の中からのみ選んだダイソーのハサミだって、マクドナルドのセットだって、ユニクロのセーターにだって愛着は持てるよ。

それにほとんどの人が生活を成り立たせるためにはそれらの企業が涙ぐましい努力の上に作り上げた大量生産品を使わずには生きていけないのでは。実際僕もそうだし。頼ってしまっている以上、「なんか悪だ!環境汚染だ!」と闇雲に言えないのです。恥ずかしいことだけど、議論されている様々のことについても知らないことの方が多い。

ならば小さなメーカーをやっているデザイナーとしても考えたい。
「消費していくこと」そのものは果たしてそんなに悪いことなのか。
「健全な消費」があるならばそれはどんな形なのか。

インターネット時代では、マーケティング方法も変化して従来のような「広く浅く届ける」ではない「個人に効率よく最適な提案」「深く刺していく」方法が生まれた。
しかしそこから生まれる予定調和は本当に僕らを幸せにしているのか。

ここからはどうしても今自分がやっているfoufouにも関わることなのでポジショントークっぽくなってしまいます。なので有料にしておきます。分量もないので先に言っておくと価格に見合っていないです。お好きな方だけ。


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