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「普遍人間学」を学ぶ

まだまだ勉強中で、普遍人間学について自分の言葉で語れる段階ではないのですが、私なりに、何とか言葉を紡ぎだしてみようと思います。

私自身、「普遍人間学」(「一般人間学」とも訳されていますが、ここでは講師の鈴木一博さんの訳でいきます。)を学び始めたのは「学校が欲しい!」「自分たちで学校をつくりたい!」と決めたときでした。学校をつくりたいという熱はあって、賛同してくれる仲間がいて、、、。だけど、何から始めたらいいのか、どうやって学校ってつくれるのかと右も左も分からずにいたときのことでした。どうやらシュタイナーが初めて学校を立ち上げた時に2週間くらいで先生候補の人たちに話した講義録があるらしい、という情報を得て、それなら何か参考になるかも、と講師の先生を呼んで、普遍人間学について毎月勉強会を開いたのが始まりでした。

集まったメンバーで、毎回自分が大事だと思うことをシェアしながら、講座は進みました。描いていたシュタイナー教育というものの根底にある考えを知るのはとても面白く、毎回「目から鱗」な体験でした。どうして芸術的な要素が必要なのかとか、どうしてエポック授業という形式ができたのかとか、眠りと目覚めというのはどういうことなのかとか、毎回シュタイナーの考えを自分なりに捉えていくための足がかりをくれる時間でした。それはシュタイナー(またはシュタイナー教育)について知る、というよりも、自分の中で大切だなと思うことを意識化していく作業だったように思います。そしてその時、自分の大事にしている「考え」がシュタイナーの言っていることと妙にフィットするなと感じました。だから、私はシュタイナー教育というものに惹かれて圧倒的な説得力を感じてしまうんだなと。

その中でも私がとくに影響を受けたのは、シュタイナーのいう「妥協」という考えです。妥協って普段あまり良い意味では使われませんよね。仕方ないこと、不本意だけど諦める、みたいなちょっとネガティブな雰囲気を纏った言葉として捉えられることが多いように思います。だけどシュタイナーが序章でいうところの「妥協」というのは、とても健やかで、どことなく愛情を持ってその状態を捉えているなと感じたのでした。私が普段大事にしたいなと思っている言葉に置き換えると、「バランス」とか「身の丈に合った」とかそういった類のニュアンスが漂っていて、そこがすごくいいなと思ったのでした。理想はあるけれど、目の前の現実をしっかりみて、できることをやるというスタンスは自分たちが普段大事にしていることだったので、シュタイナーもこんな風に言っていたのだなと安心したのでした。シュタイナー教育に対するちょっと勝手なイメージを当時は持っていて、ストイックに理想を極めよ!と言われるのかと思いきや、「理想と現実のあいだに着地点を見つけるんだよ」とアドバイスをもらったように感じて、人間らしくていいなとホッとしたのでした。

そういう心に残った言葉や考えというのは、日常過ごしているとふと立ち現れるのです。しかも、とても大事な場面で、「あぁ、あの時シュタイナーが言おうとしていたのはこういうことだったのか!」と”分かった!”という感じがやってきます。実践を通して腑に落ちる、という体験がシュタイナーの考えを学んでいると多いなと感じます。言い換えれば、実践を通してでないと理解することが難しいとも言えるかもしれません。からだと心と頭と、全部使って学ぶと、「こういうことだったのか!」と腑に落ちる。簡単には分からない、でもやってみると真に迫ったことを言っているなと分かる。

こうして「普遍人間学」をじっくりと学ぶことは、学校をつくったり、日々の授業をつくったり、子どもとの毎日に向き合うための軸となるものだという確信のようなものがあり、コースの主軸のひとつに据えることにしました。

鈴木一博さんの生きた言葉で、もう一度「普遍人間学」に取り組めることはとても楽しみなことです。一博さんの講座はリピーターも多くて私も何度でも聴きたいと切望しています。もう既に学ばれたことがある方でも、新たな発見がきっとあるでしょうし、今だからこそ心にグッとくる言葉や「考え」が立ち現れてくるかもしれません。ぜひご一緒に「普遍人間学」の世界へと一歩踏み出してみませんか。

スタッフK

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