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ポスト資本主義への実験 アートの価値はどう決まる?

アート界のオリンピックとも称されるヴェネツィア・ビエンナーレは、世界で最も格式高い現代アート祭典の一つだ。「ポストコロニアリズム」「マルチカルチュラリズム」をテーマとしており、2015年にはグローバル資本主義を批判する企画展も行われた。
しかし、そこには大いなる矛盾がある。
結局のところ、どれだけ多様な価値を提供したとしても、アートの価値付けは、極少数の強者によって「マーケット価格」という形で意思決定されている。ヴェネツィア・ビエンナーレなど、その最たる場だ。アートは、資本主義という競争社会、中でも「勝ち組」である権力者諸君と、切っても切れない関係にある。
(…というのは、デュシャン展へ行くまえ、現代アートが全く分からなくて読んだ、『現代アートとは何か』に書いてある。こうした現代アートの構造的矛盾だけでなく、作品と解釈者の関係性について触れており、現代アート全体の姿形を理解できる非常に興味深い一冊だ。)

さて、もとより古来、アートの価値付けは権力とともにあった。そこに込められた意義や題材は数あれ、領主、王や貴族、富裕層…と、その時代における権力者のために存在してきた。
やはり、アートはシステムから逃れられないのだろうか?アートへの投資が加熱しているようにも見える現代にあって、一部では様相が変わって来ているようだ。


横浜市開港記念会館で開かれた「ポスト資本主義オークション」(PCA)で作品を落札したのは、価格ではなく「アイディア」だ。

このオークションでは、通常のオークションで唯一の手段となる「お金」のほか、「理解」「機会」「交換」を落札条件として提示できる。たとえば、人間が鳥のさえずりを聞いた際の脳内の映像をプリントしたという作品は、1111円+「理解」(“ろう者として”「この作品で、初めて鳥のさえずりというものを理解することができた」)で落札された。

アートがなにより面白いのは、こうした実験を自由に試みやすい点にあると思う。作品自体、音楽なら放送コードに、出版なら差別表現にひっかかりそうなものでも、アートの形としてなら世に問うことができる。必ずしも正解を求めないからこそ、問い掛けの幅は豊かになる。
だとすれば、その価値付けが資本主義に寄って立つという大前提さえ、打破できるのかもしれない。ポスト資本主義的なアートの可能性はもとより、浮世離れしたアートの実験が与え得る、実社会の既存の枠組みに対するインパクトも興味深い。


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