年下・あいみょんに学ぶ平成の処世術五番

子どものころ、「最近の若い者は…」という大人にだけは絶対になりたくないと思っていた。いまのところ大丈夫そうだ。若い人たちの活躍を見るにつけ、湯のみ茶碗片手に「本当にすごい〜」などと感動している。老いてなお、若者を尊敬して応援できる、素直なババアでありたい。って、今はお前もがんばれよ27という話だ。


なかでも、あいみょん。私は流行に疎く、基本は山口百恵か加山雄三を聴いて過ごしているが、友人の影響で現代音楽に突如ハマったりする。彼女もその口だ。


勝手ながら、彼女からは平成の処世術を学ばせてもらっている。私も平成生まれだが、どこか昭和に恋い焦れている節がある。だから余計にあいみょんの持つ「平成っぽさ」が新鮮かつ強力に響くのだ。最近では彼女のお陰で平成をすこし好きになれそうなくらいで、感謝の気持ちを込めて、その学びを書いてみる。

1 かろやかに境界を越えろ


彼女は、かろやかに境界を越えてくる。年代、性別、音楽のジャンル、性(生)的タブー、人間の弱さ汚さ、社会的ゆがみ、個の領域、既存の価値観。楽曲を聴けば、すぐにわかるだろう。その歌詞。その旋律。
境界や括りにしばられず、むしろ越境することを楽しんでいるようにさえ見える。それも力みも捻くれもなく、若さ故の軽やかさでヒョイと超えてくるからすごい。私も見習って、頭と心を柔らかくしておきたいと思う。
♪「生きていたんだよな」

2 だれとでも対等であれ


「だれとでも」というのは、簡単なようでいてなかなか難しい。人は社会に帰属する生命体で、そこには見えない上下関係があったりする。わかりやすく上におもね下に威張る人でなくとも、なんとなく強弱や損得の位置づけをしてしまうものだ。
あいみょんは違う。どんな世代のいかなる立場の人(たとえそれが自分と相反しても)にも、対等な個人として向き合おうとしている。あるいは他のアイドルたち同様に大人達から全力プロデュースされながらも、一方的に操られず、あくまで「共に仕事をしている」スタンスをとる。
すごいよ、あいみょん。どうやって育ったら、そんな24歳になれるの?
♪「ナウなヤングにバカウケするのは当たり前だのクラッ歌」


3 自分を客観的にプロデュースせよ


何かのインタビューであいみょんは、「私のこと“ギター女子”とか言ってる人たちに届けたいんですよ(笑)」と言っていた。彼女には、そんなところがある。
これっておそらく平成生まれだからこそだ。メディアが多角化したおかげで、よくもわるくも世の中での自分が可視化されやすい。もう少し上の世代だと、「ネットは匿名だし意味わからん!」とか言い出しそうなものの、平成生まれの彼女は情報に対するフラットさを体得している。世論的なものを気にし過ぎることもなく、あくまで客観的に自分を見る手段とし、キャッチーに変換させる能力に長けている。
♪「夢追いベンガル」


4 真似はパクリじゃない、リスペクトだ!


賛否両論だが、彼女の曲が心地よいのは、どことなく聴き覚えがあるからだ。あいみょん自身もしばし言及しているが、オザケンや平井堅をはじめ、多くの昭和〜平成のミュージシャンの影響を受けている。それらの要素が、良い意味で散りばめられているのが、彼女の音楽だ。
そもそも平成って、独自性よりもむしろ既存の良さをどれだけキャッチーにリメイクできるか?が求められてきた。サザンデビュー時のわけわからなさやミスチル登場時の衝撃にも憧れるけれど、そこにある素敵なものに愛を込め、“魅せて”届けられるのは、平成ならではの業だし、平成なりのリスペクトかもしれない。
♪「愛を伝えたたいだとか」



5 メンヘラ万歳


私は元々「メンヘラ」という言葉自体が嫌いだった。差別用語と認識していた。しかし、ネットでの成り立ちを調べたり、臨床心理や精神医療などの専門家の意見を読み聞きするうちに、ありっちゃありだと思うようになった。「メンヘラ」はその出自から、正式な病名にはないゆるさ=懐の深さがあり、そのために当事者が集いやすく救われやすい面がある。
あいみょんは、自分はメンヘラじゃないとツイートする一方で、メンヘラ的な弱さに圧倒的理解がある。だから琴線に触れる。多様性や賛否を広く受け入れる彼女の度量は、「メンヘラ」という言葉の持つ懐の深さにも似ていて興味深い。
というか完璧な精神などないわけで、人間だれしもメンヘラでしょう、なんてあいみょんが笑っている気もする。
♪「死ね」

「日本武道館さよならコンサート・ライブ」で密やかに唄い喋る山口百恵DVDも最高だけれど、いつかギター片手に歌声を響かせる生あいみょんの武道館ライブも行ってみたいものだ。

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