見出し画像

装幀ヲ浪漫スル —もうすぐ絶滅するという紙の書物に恋して

あなたはこの大型連休、何冊の紙の本を手に取っただろうか?
ひと昔前、連休といえば「普段は取り組めない分厚い本を読む」という人も少なくなかった。
しかし今や、紙の本は、そんな地位にはいない。

紙の本は読むための道具として完成形であると、紙の本愛護団体の人たちは、しばしば語る。飲むためのスプーンが、そうであるように。だから電子書籍とは棲み分けができる、と。
あるいは、かの米国における研究によると、電子より紙の本の方が頭に入りやすいそうだ。定量的かつ脳科学の見地からも正しく、だからエリート層の知識は紙の本に依って立つのだ、と。

本当に、そうだろうか?

世代や属性が変われば、その本が紙でつくられている必要性は、もはや無い。z電子書籍は本当に便利だ。ジムで運動しながら、シャワー浴びながら、料理しながらでも読めるし、書き込みも参照も容易だ。なにより、手のひらサイズに何冊でも入るというのが夢のようだ。
無人島に1個だけ持っていくなら確実に紙の本を選ぶが、3個持っていけるなら、iPadと発電機とWi-Fiを選ぶかもしれない。
1992年生まれの私でさえ、そう思うのだ。
ましてや生まれたときからiPadを操る赤ん坊からしたら、有用性における電子書籍の勝利は明らかだろう。

紙の本vs電子書籍の話だけではない。

月1000円あれば、世界中の音楽に一瞬で繋がれて、良質なオリジナルコンテンツが手に入る時代に、無料で溢れる「文字情報」に敢えてお金を払うなんて、物好きでしかない。
おまけに、比較的受動的に享受できる映像や音楽と異なり、文章は能動的に取り組まねばならない。そんなものを、脳は欲するだろうか?
さらに、ミニマリストの時代に、物自体の場所だけでなく本棚という装置を必要とするなんて、難儀な代物だ。

それでも私は、紙の本が好きだ。
紙の本を偏愛している。
恋しすぎて、仕事にまでしてしまった。

なぜだろう?なぜ紙の本がすきなのか?
曖昧な「愛着」「慣れ」「懐古主義」「身体的欲求」などを除けば、確実に言えるのは「紙で作られているから」ということだ。そして、紙で作られている限り、多かれ少なかれ、装幀がつきまとう。

紙の本に携わる人間として、否、紙の本を愛する人間として、改めて、紙の本が紙の本たり得る一つの要素「装幀」について、思いを巡らしてみてはどうだろうか?「装幀ヲ浪漫スル」と題し、いくつかの四方山話を書いてみたい。
たとえば、紙の話、ブックデザイン界、イラストレーション、など。広義の装幀にまつわる話題を、思いつくままに綴る予定だ。

なお副題は、『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』から拝借した。本書も 2011年の造本装丁コンクールで文部科学大臣賞を受賞している。



ありがとうございます。貴殿の貴重なサポートは狐の餌代に回させていただきます。