本を読むということ

宇多田ヒカルが出ていたSONGSを見ていたら、おおっと思う言葉があった。
小説を読む、という話の流れで、小説が世界とつながる手段だった、ということを言っていた。
書いた作者とつながるのはもちろん、その本を読んだ読者ともつがることができる、と。
(細かい言い方は違ったかもしれない)
実は、最近考えていたこととばっちりはまっていたからおおっと思ったのだ。
本を読む意味ってなんだろう?
というのがここ最近の思考のテーマで、辿り着いた結論が同じだった。
よく、思考の仕方がわかるとか、想像すれば本の中でいろいろな体験ができるとか、文章を書くのがうまくなるとかと言うけれど、イマイチピンときてなくて。
これだ!とやっと来た。
当たり前のことじゃんって思うかもしれないけど。
私は前者の作者とつながる、というのはよく本を読むようになった高校生のときからすごく実感できているんだけど、読者とつながる、ということをちゃんと実感できたのは最近だった。
自意識の強すぎる子どもだったので、自分と作者という他者ひとりの関係しか感じることができなかったんだな、と今となれば思う。
ああ、私をわかってくれる人が、少なくとも世界にひとりはいる!
と、本を読んでいた。
そうすることで、自分を客観的に見られるようになったのだな。
で、最近、作者ひとりではなくて読者ともつながることができる、ということを実感した。それには、きっかけがふたつある。
ひとつは、西尾維新。
西尾維新の著作についての展示が集められた、西尾維新大辞展というものが昨年東京であって、行ったとき。
ものすごい人だったんだよね……。
展示が人で見えないっていう……。
私は西尾維新が好きってひとにそれまでひとりしか出会ったことがなくて、「ええ〜っ、こんなに好きな人いるの〜!?」と当たり前で失礼な話なんだけど思った。まず読書好きを見つけるのが困難な今の時代、しかも作者まで好きだってひとに出会うのは天文学的確率なんだよね。
ひとりひとり話しかけて「何のシリーズが好きですか!?どの本が好きですか!?掟上今日子シリーズ大好きなんですけど、私としてはやっぱり結局クビシメロマンチストが至高なんですよね!」とか言いたかった。しませんけれども。
もうひとつは辻村深月の「かがみの孤城」。
この本については本当にもう言い尽くせないんだけど、現実に城はないけど、これをもう読んだ人もこれから読む人も過去から未来にかけてみんなが読んだ人の味方になるんだなー、と思った。詳しくは読もう。
昔はもっと、この本を読んでこんなことを考えてるのは私ひとりでは?と思うこともあったんだけど、今は感想もすぐ検索できるし、いい時代になったなあ。
読者ともつながると考えるとさらにさらに視点を手に入れられるわけで、また読書が変わるなあ、という気持ち。
とりあえず無理矢理気分じゃないときに本を読んでもよくないので、朝読書は滅亡したらいいと思う(脈絡のない突然の過激派)。

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