日本的職人

新潟県三条市にある、『鍛冶道場』へ行った。
ここ最近は、日本的なものに定期的に触れていたい思いがある。

「日本的な」というのは、ネイティブジャパン、というべきもので、「これって、日本ぽいよね」というもの。和洋中でいう、”和”の部分である。

燕市・三条市は、燕三条(つばめさんじょう)という風につなげて呼ばれることもある。その理由は、燕市が職人の町・三条市が商人の町として、燕の職人がつくったモノたちが、三条の商人によって運ばれていったからだ。

信濃川の本流やその支枝流が集まる三条市は、古くから越後平野の要衝として栄えた商業都市。燕市で生産された金物や洋食器も、三条商人たちの手によって販路を広げ、燕三条のものづくりが多くの人々の生活に溶け込んできた(引用元:燕三条|さんち 〜工芸と探訪〜)。

三条鍛冶道場のHPによると、鍛冶道場は平成17年度に、(鍛冶)技術の継承と産地の活性化を目的に、ものづくり体験施設としてつくられた。その前身は平成5年度に開講された「さんじょう鍛冶道場」(この講座は「切り出し小刀」をつくる体験講座として開講された)。

小刀をつくる講座から、現在は和釘づくり、ペーパーナイフづくりの体験講座を開講するようになった。

***

鍛冶道場では、ペーパーナイフづくり体験をした。一本の洋釘(下の写真、一番左)を叩いて伸ばし、ナイフに加工する。

工程は、

・火を起こす
・釘を火に入れる
・先端を叩いて潰す
・火に入れる
・長いの部分を叩いて平らにし、ナイフの身体の部分をつくる。
・火に入れる
・斜めに当てて、刃になる部分をつくる

となる。

このとき、金槌をもってカンカンと叩いていく(実際はキンキンといった音が鳴る)。この体験を通してあらためて思ったのは、職人というのは”積み重ね”だということ。

金槌で釘を叩くものの、金槌のどの部分が釘のどこに当たっているのか、感触が非常にうすい。金槌もそこそこ重い(1〜2キロくらいはあったと思う)から、ただ叩いているだけで腕が疲れて、疲労感が優先的に脳内へ入力されてくる

金属が伸びている感じは目でなんとなく見えているけれど、思ったように伸ばすには、狙った場所に、狙った速度で振り落とし、当たっている面を感じ取る必要がある。これがまるで出来ない(まあ、はじめからできるわけはないのだけれど)。

担当してくださった職人の先生は、たぶん、70代くらいだったと思う。背中も丸い。走ったり跳んだりしようものならすぐに息切れするんじゃないかと思うような見た目で、身体も小さい。

でも、疲れる様子は全くないし、素人が叩いてクニャクニャに曲がった加工中の釘を瞬く間にトンテンカンと修正していく。完成形へのイメージと、そこに向けての修正力、スピード、明らかに頭で考えているスピードではない。

技術に年齢は関係なく、むしろ年を重ねるほどに習熟していくのだと思った。

***

ここで、機械加工と手加工との比較をしてみたい。
というのもタイトルの「日本的」という部分に大きく関わるからだ。

機械加工と手加工との違いを”情報の流れ”という視点で見つめていく。

情報の流れというのは、人間の五感から光や音や香りなどの刺激が入力されて、それを元に外界に働きかけるという一連の流れをイメージしてほしい。

例えば太陽光が眩しいと目をつむる。刺激の強い香水が漂うと鼻を塞いだり、反対にいい香りがするとその発信源を探す。

身体にどのような情報が入力されるのか、またそれを受けてどのような動作をしているのか。この点に注目していく。

機械加工の場合、大抵の場合は刃物が回転している。だから加工の主体は回転する機械となる。そこに金属や木材の素材を通していくから、自身の力加減が、加工に影響を及ぼす範囲は狭い。

大きな影響を与えるのは、刃の研ぎ具合、機械に素材を通す速度、身体の向き、となる。身体に跳ね返ってくる情報は、機械が素材に穴を開けたり削ったりした際の刃が当たってる感じだ。

一方の手加工の場合だと、自身の力加減が素材の変化に直結する。
身体動作と加工との距離が短いというか、分断されていないというか、身体と加工とがしっかりと接続されている。

自分の力加減=素材の変化といったところか。
以下に、ぼくなりの違いをまとめてみた。

▼機械加工による素材の変化プロセス▼
肉体 → 機械工具(絶え間なく動作)→ 素材の変化
→機械工具による素材の切削などで、素材が変化する
→機械の回転(+ちょっとの身体動作)=変化の具合
身体が機械に最適化

▼手加工による素材の変化プロセス▼
肉体 → 手工具(+身体動作) → 素材
→身体動作の加わった手工具が与える衝撃で、素材が変化する
→身体動作=変化の具合
身体が素材に最適化

文字に起こそうとすると難しいが、機械加工ばかりをしていると、”作ること”の本来から、身体がドンドンと遠いところへいってしまうような気がする。

ものづくりの主体が機械になり過ぎるのかもしれない。

ものづくりのためのものづくりから、機械のためのものづくりへと、変遷していくような。身体動作も機械に最適化、肉体に返ってくる情報も一様になっていくような。

素材への最適化が施された道具が生まれるのではなく、加工する道具への最適化が成された身体、ものづくりになるような。

手加工を礼賛するわけではない(経済的な都合もあるし、接点を模索しないといけない)。それでもどんな情報を浴びているのか、どんな身体の使い方をしているのかという点は、見直したほうがいいと思う。ものづくりに携わる人間は特に。

脳内にフィードバックされる情報、身体の使い方によって、頭の中で組み立てられるイメージの質感が変わってくると思うからだ。よりクリエイティブになりたければ、情報という視点は欠かせない。

ぼくも椅子に座ってコンピュータに向かいキーボードをカタカタとさせているだけではいけない。今回の体験では、日本的職人の浴びてきた情報のフィードバックを、ほんの少し、身体に通せた感触がした。

”日本的”とは、身体にどんな情報を通したか?を意識すると感じ取れるのかもしれない。燕三条は、日本的職人を感じ取れる場所。

日本的を身体に通し、感じ、引き受けて、体現していくことで、ネイティブジャパンは残っていくのだと思う。

(今回の体験でつくったペーパーナイフ。職人の方が「刀みたいにするか?」と、カッコイイ感じにしてくれた。)



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