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火山に囲まれたオーヴェルニュの中心、クレルモン・フェラン

町の紹介記事で、どの町を最初に取り上げるかを考えましたが、魅力的な街は多数あり、悩んでしまったので、最も記憶が新しい、前回の渡仏の際に訪れたオーヴェルニュ地方のクレルモン・フェランを取り上げることにいたします。
 
クレルモン・フェラン(Clermont Ferrand)は、フランスの中央から少し南に位置する町で、オーヴェルニュ地方の中心地です。とはいえ、華やかなパリ、リヨンなどに比べると、地味な街かもしれません。
 
私は2023年の10月末に訪れたのですが、この渡仏の目的の1つが、オーヴェルニュ地方を巡ることで、クレルモン・フェランも初訪問でした。これまで、様々な機会に恵まれ、フランスの各地を訪問してきましたが、唯一未踏の地であったのがオーヴェルニュ地方で、この旅でようやくフランスの全地方に足を踏み入れることができました。
 
クレルモン・フェランには空港もありますが、それほど多くの便が到着するわけでもありませんし、パリ以外のヨーロッパのハブ空港からも接続はできません。私も電車を使ってアクセスをしたのですが、電車は電車でTGV(日本でいう新幹線にあたるフランスの高速鉄道)も通っていないので、オーヴェルニュ地方へは、そもそも訪ねるのが大変というのが第一印象でした。大きな町からですと、パリから列車で訪ねるか、リヨンから列車で訪ねるのが便利かと思います。

近代的で利用しやすいクレルモン・フェランの国鉄駅

さて、オーヴェルニュ地方では、クレルモン・フェランを拠点に町の雰囲気を感じること、その地方の特性を感じること、そして、有名なロマネスク建築を巡るのが目的でした。今回は、ル・ピュイ・オン・ヴレィに1泊し、その後、クレルモン・フェランに3泊したのですが、列車の利用が多くなることはわかっていたので、駅前の安宿に宿泊して、様々な場所に足を延ばしました。
 
クレルモン・フェランの国鉄駅に到着したのは、午後の4時ごろで、ホテルのチェックインを済ませた後に、少し町の散策に出かけました。国鉄駅は、旧市街の中心から1kmほど離れていますが、土地勘を掴むためにも、中心地へと向かいます。
 
これは、クレルモン・フェランに限ったことではありませんが、オーヴェルニュ地方は中央山塊の麓に位置し、多くの火山がある地方です。中でもクレルモン・フェランは、その火山岩を使った街づくりで知られていて、町全体で、黒い火山岩を使った街並みが知られています。しかし、実際に足を運んでみると、それほど真っ黒という印象はありませんでした。しかし、教会など歴史的な建物や古い家などは、この火山岩を使った建物であり、その雰囲気は十分に感じることができます。
 
街の中心は、ヴィクトワール広場、2つの鐘楼が目印のノートル・ダム・ドゥ・ラソンプシオン大聖堂(Cathédrale Notre-Dame-de-l'Assomption)があり、観光案内所もここにあります。この大聖堂は、クレルモン・フェランを象徴するような建物で、この火山岩を使った黒い大聖堂は非常に印象的です。

旧市街の中心、ヴィクトワール広場

ヴィクトワール広場の中心に立つのは、教皇ウルバヌス2世の像。この町出身というわけではないのですが、この地で開催されたクレルモン教会会議を開き、第一回十字軍を提唱・実現をさせた人物です。広場の周りには多数のレストランやカフェが立ち並び、旧市街の中心といった雰囲気があります。
 
では、町の必見名所の一つ、ノートル・ダム・ドゥ・ラソンプシオン大聖堂からご紹介しましょう。
 
■ノートルダム・ド・ラソンプシオン大聖堂(Cathédrale Notre-Dame-de-l'Assomption)
 
クレルモン・フェランで必見の教会の1つが、ノートルダム・ドゥ・ラソンプシオン大聖堂です。アソンプシオンとは、「聖母被昇天」を意味します。建造は1248年ごろとされているので、後述するロマネスク様式のノートルダム・デュ・ポール聖堂と比べて100年ほど後の時代となりますが、この100年間はロマネスクとゴシックの転換期とも言え、こちらの教会は、2本の尖塔が特徴的なゴシック様式の大聖堂となります。一部は1865年に修復家、ヴィオレ・ル・デュックによって修復されました。堂々たる雰囲気ですが、その第一印象は「黒い!!」ということ。火山岩から作られたこの地方ならではの教会と言えるでしょう。
 
中に入ると壁の黒さは感じるものの、いたるところに鮮やかな光を感じることができます。ステンドグラスなど13世紀から15世紀の古いものが残っており、バラ窓も大変美しいです。周歩廊には、いくつもの礼拝堂が設置されていますが、なかでも内陣に向かって左側に位置するサン・ジョルジュ礼拝堂には、十字軍の守護聖人の殉教を描いたフレスコ画が残っています。中軸に位置する礼拝堂には、ロマネスク様式の玉座の聖母像があります。ここでも黒い聖母像となっており、この地域では黒い聖母信仰が根強く残っていたんだろうと感じることができます。
 
なお、この大聖堂のほど近くにクレルモン・フェラン出身の哲学者・パスカルの名が冠されたパスカル通りがあります。石畳が続く趣のある通りです。
 
大聖堂の正面(ファサード)から西へと延びるのがグラ通り。この通りが旧市街のメイン・ストリート的な存在で、多くのお店が軒を連ねておりにぎやかな界隈です。広場とは言えない、小さなくぼみのようなグラ広場には、ロマネスク時代の浮彫を施した壁がきれいに残っており、保存状態は抜群。「弟子の足を洗うキリスト」を示したレリーフも見逃さずに見学しておきたいポイントです。
 
もう少し先には、サン・ピエール屋内市場があります。屋内市場としてはそれほど大規模ではありませんが、特にオーヴェルニュ産のチーズがずらりと並んでいるガラスケースは圧巻。ホールで売られている大きなサン・ネクテールや郷土料理に欠かせないカンタル、味わい深いフルム・ダンベールやブルー・ドーヴェルニュなど、名だたるチーズがそろっています。

サン・ピエール市場のチーズ売り場

グラ通りを西へと進んでいくと、トラムの線路に突き当り、少し先には、大きなジョード広場があります。
広場には馬に乗った勇ましい英雄の像がありますが、これがクレルモン・フェランの有名人であり、フランス史においておそらく最初に登場するであろう英雄ヴェルキンゲトリクスです(フランス語読みでは、ヴェルサンジェトリクス)。紀元前58年、カエサル率いるローマ帝国軍は、イタリアより、プロヴァンスをへて、ナルボネンシス(現在のナルボンヌ、トゥールーズ、マルセイユなどを含む南フランス地域)を平定し、さらに北上、ガリア制服を企てますが、オーヴェルニュで、このガリアの英雄ヴェルキンゲトリクス率いる軍隊と戦い(ゲルゴウィアの戦い)、歴史的な敗北を喫します。その後、ヴェルキンゲトリクスはとらえられ、絞首刑となってしまいますが、強大なローマ帝国に立ち向かったガリアの英雄としてフランスではとても有名な人物となっています。ちなみに、この像を作ったのは、フレデリック・バルトルディ、あのニューヨークの自由の女神像を作った方です。
 
大聖堂から北に延びる道を進むと市庁舎を経てアンボワーズの泉にでます。ここは、ちょうど坂道のてっぺんのような場所に造られており、ポテルヌ広場という名前ですが、展望スポットとして知られており、天気が良ければ、ピュイ・ド・ドームに火山まで見渡すことができます。
 
ここから東の方へ向かいます。ポール通りには旧市街らしい歴史を感じさせる建物が立ち並び非常に雰囲気が良いです。16世紀から18世紀ごろの建物がいくつも残っています。そしてクレルモン・フェランで必見の教会、ノートル・ダム・デュ・ポール聖堂にたどり着きます。
 
■ノートル・ダム・デュ・ポール・バジリカ聖堂(Basilique Notre-Dame du Port)
 
このロマネスク様式の聖堂は「オーヴェルニュ地方・5つの主要ロマネスク教会」に数えられる教会です。ポール(Port)は港という意味ではなく、ラテン語のポルーウス(集散地)からきているようで、かつて商業の中心地であったこの場所に建てられたという意味のようです。現存する主な部分は、11世紀の地下聖堂の上に、12世紀に造られたロマネスク様式を色濃く残しています。外側では南側の扉のタンパンの彫刻が見事。破損もあって残念ではありますが、イエスが双方に天使を従え、下部には「東方三博士の聖母への礼拝」「イエス・キリストの神殿奉献」「ヨルダン川でのキリストの洗礼」の彫刻が見られます。正面にまわってファサードを見ると、ロマネスク様式によくあるタンパン彫刻など、彫像などでの装飾は一切見られないものの、色の異なる石で作られたアーチや切妻の装飾など、壁そのものの装飾が見事。特に後陣の礼拝堂部分にあたる半円形の部分の装飾は非常に素晴らしいです。

後陣部分の装飾が美しいノートル・ダム・デュ・ポール・バジリカ聖堂

中は修復され、石灰塗装により、外観からは想像できないほど明るい雰囲気ですが、内陣周歩廊にある柱頭彫刻がこの教会最大の見どころと言えるでしょう。ステンドグラスなどは後の時代に付け加えられたもので、石灰塗装によって、少々歴史を感じる古さの部分が失われてしまったような印象も受けましたが、現存する内部のロマネスク芸術は素晴らしいものであると感じます。半円形に並んだ8本の円柱が立ち、その柱頭には、「聖母被昇天」「受胎告知」「エリザベート訪問」「アダムとイヴ」など聖書の場面が見事に表現されています。地下礼拝堂は、教会内でも最も古い部分で、ケルト時代から残っているものであると思われる井戸と、この地で13世紀から信仰の対象となっていた黒い聖母像が収容されています。おそらく、この地下礼拝堂は、この地がキリスト教化される前から土着信仰の儀式を行っていた場所であったのではないかと考えられています。黒い聖母像は、10世紀にオリジナルが制作されたようで、この聖母像への信仰は地元での限定的なものであったようです。しかし17世紀、黒い聖母のご利益とされる2つの奇跡が起こります。聖母像は1614年に農作物の収穫に被害を与える長雨を止ませ、1631年にはペストの流行を止めました。この時から毎年の聖母像の巡礼行列が始まり、有名になりました。マリア像は損傷が激しかったため、1734年に作り直され、これが今日クリプトで見られる像です。オリジナルのマリア像は、フランス革命時に破壊されてしまったようです。

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