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福音派発信の性的少数者の考察を見て

『聖書と性的少数者(LGBTQ)』聖書は本当に同性愛を禁じているのか。 https://youtu.be/cMftp8arYM0

 福音派からの発信という点では評価できる。LGBTQのライフストーリーでクリスチャンのFTMTSの証もジェンダーバランスが取れているが、語られる聖書テキストは主に「男性間性的接触」について。一見「当事者」不在のまま話は進んでいく。でも、一番の当事者は「あなた達」なのだよ。
 差別や偏見の状態では、わたしたちとあなた達という主語の転換はきかない。一度相対化することによって初めて可能になる様では差別や思い込みや決めつけの現実から自由になることは出来ないんだよ。
 ゲイ文化への偏見があった。偏見というのは誰でも持ち得る無知から想像した視点だ。もし福音派の教会がLGBTQに寄り添いたいのなら、なぜこの様な現象が起きてしまったのかという出来事の積み重ねの検証と、出来事の背景にある痛々しい現実に目を向けることからなのではないか。わたしたちが何者として語られてきたかを検証するのはいい。だがわたしたちをそうあつかってきたのは、まぎれもなく「あなた達」なのだから、自分がどのように神の名の下、LGBTQを差別し断罪し拒絶してきたかという視点を持たなければ「遠い昔の人が書き記したこと」となる。はじめに言うがそれではあなたとキリストの十字架は全く無関係となってしまうことを記憶されたい。
 今、日本ではこれまでにない梅毒の大流行だそうだ。罹患者年齢は10代〜20代が一番多いそうだ。この現象を生んだ原因はなんだろうか?今日の家庭と学校における若年層への性に関する教育のあり方が機能していないということだ。
 ではこの結果を見て「梅毒は教育を受けていない若い男女の病気」とスティグマを与えられるだろか?それはないだろう。しかしHIV /AIDSは「ゲイ癌(Gay cancer)」と即座にスティグマ化され、国ぐるみで研究も治療薬開発も治療もやめ(正確には予算をつけなかった)多くのHIV/AIDS患者感染者は放置された。
 ストレートの感染者も非加熱血液製剤を危険承知で危険宣告もなく投与されていた血友病の方々にも感染者はいた。これは、日本においてはこの事実を隠蔽するために大学教授と製薬会社が癒着し情報を事実を隠蔽し、非加熱血液製剤の在庫を捌けるため販売をそのままにさせていた。そして、アメリカに永住権を持つゲイの日本男性を強制的に一時帰国させて「AIDSの第一感染者は外国暮らしの長いゲイの男性」であると発表した。これで「AIDSはゲイの病気」という情報を作り上げたのだ。関心を遠ざける、特に非加熱血液製剤使用者からの関心や心配を。
この様な強引な方法でゲイをスケープゴートにすることにより遠ざけられると考えたのだろう。
 米国保守派政党の大きな票田である米国福音派の牧師や信者たちは「AIDSはゲイの罪への報い」であると至る所で盛んにプロパガンダした。そうしなければ米家庭協会という一部の教会(ネオコンの福音派だが)と政治家のサロンの期待に応えられないからだ。政治家は票を集めるには「反LGBT」とは言えない。本人が言えないことを米家庭教会は代弁していた。福音派教会との主な癒着の理由は、要は利権だ。
 アメリカもフランスもいよいよ死者が増加し、ゲイだけでなく性産業従事者にも同じ病気が見られる様になった。すなわち、買春している男性にも、もしその男性が既婚者ならその連れ合いにまでピストン感染させることになる。PWH/Aの多くがゲイやトランスジェンダーの性産業従事者だけならいつまでも研究は始められなかったと思う。さなざなま「理由から」思い腰を起こし研究と治療を開始した。日本もHIVが混入しているかもしれない非加熱血液製剤を「安全だ」とコメントした帝京大教授医師と結託して依然販売され続けた。在庫を吐き出したかったのと、帝京大教授の威信を守るための圧力よりも、緑十字社への抗議と裁判による突き上げにより、これ以上逃げれない程時間を先延ばしやっと謝罪した。謝罪したところで慰謝料払ったところで体は元へは戻れない。保身のために嘘ばかりつき、多くの人を治療法のない死の病に引き渡し、それでも突き上げ食らわされないと謝らないだなんて、非人道的で不誠実極まりない体制だ。多くの社員や帝京大教授の腰巾着が「何も考えずに引き起こした凡庸悪の出来事」となってしまったことを忘れずにいたい。
 感染者数によればHIV/AIDSはある地域では未だ「ゲイの病気」であり「ゲイの病気」ではない。アフリカはやはり貧困と教育の問題で感染者を増やしている。社会的圧力により女性との結婚を選んだゲイやバイの男性のHIV/AIDS感染率は高い(高めの年齢の新規感染者数により推測できる)。ストレス解消と自己受容を性行動に見出すからである。
 一方、バニラと呼ばれる穏やかな体液交換がほとんどない性行為を望むゲイ男性もいる。この講師はそう言ったゲイ存在を知らないのだろう。ゲイ文化とはすぐに誰とでも寝たり乱行する文化は「男性特有の激しい性欲」とゲイの抑圧された現状に原因があると話していたが、とんだ見当違いだ。
 社会が抑圧するから隠れて「性行為」にしかホーリックな自己を表現できない時代から、ゲイの公民権運動と共に今までの反動の様にフリーセックスの発想はゲイだけではない。そしてHIV/AIDSの出現には国家ぐるみでスケープゴートにされ放置された。ゲイなど世の中から全員死に絶えればいいかの如くに。
 わかるだろうか。LGBTQの問題はSOGIにより違う。だが、見捨てられ、福音派と議員の癒着によりあたかも教義かの様に差別され、排斥され、暴力を受け、追い出され、一人きりにさせられて、運により殺され、自死する。「この生きづらさは誰が作り出したものだろうか?」我々の存在に由来するのか?
 「日本ではそんな激しい差別ないでしょう?」いう人がある。当たり前じゃないか。誰が望んで「変態」「異常」扱いされたい?されたくないから皆ストレートのふりをするなり「彼女いるの?」みたいな低レベルな質問もしれっと交わしているだけだ。生きたくもないダブルスタンダードに甘んじているだけ。先進国の中で新規HIV感染者が増えているのは日本だけだ。これは日本のゲイがセックス狂いなのではなく、秘密裏にセックスするしか自己を解放することも、普段の抑圧から逃れることもできないひとつのしるしである。同性婚についていつまで経っても「慎重な理解を」とバカのように繰り返す。一体何を理解したいのか。取り扱う案件でないという意味なのだろうが、このまま不平等な状況下にLGBTQを閉じ込めれば、特に若いLGBTQの子たちに生きていくビジョンや夢や憧れを与えることができない。愛がなければがなければ、誰が自分を大切にできよう。夢もなしにどうやって生きていけばいいのだろう。金と権力のためなら、HIVが混入していた非加熱血液製剤を「安全だ」と大学教授がお墨付きして患者に投与させる非人道的な国だ。理解など言い逃れ。本心は絶滅してくれたらいいくらいにしか思われていないだろう。LGBTQに対し日本政府はいつまでも救済策を出さないのが何よりの証拠ではないか。このような状況にあって教会がLGBTQに関わるという「意味」をしっかりと理解し覚悟して関わらなければ、申し訳ないが教会の単なる自己満足にすぎないし、自慰行為ばりに抑圧者を消費する可能性があることを自覚されたい。
 ほとんどの日本人は相手を異性愛者だとみなす。男には女、女には男という発想で回っている。性的指向という発想などないが故にプライベートなことまで親しくもないのに聞く。たしかに異性愛者が圧倒的人数なので、よっぽど意識が高くない限りそのような問題はプライベート領域の問題であると考える人は仕方がない。もちろん、いちいちカミングアウトするのも、空気の様に埋没するのも、その人それぞれの自由だ。ただ、カミングアウトした先は容易に想像できるだろう。だから日本のLGBTQの多くの人は埋没傾向にある。
 だがこの常に異性愛者扱いされ異性愛者のように振る舞う鬱陶しさや抑圧や、演じなくてはという同調圧力は異常だ。このような「異性愛者と決めつける暴力」という現実は誰が作ったものだろう?誰が行っているものだろう?自分の存在を喜んでくれない人間や人間関係の中で、誰が自分自身について語りたいだろうか?
 挙句には「初め見ました!」とパンダでも見る目で見られる屈辱と苦痛。かつて友人に「大事なことを教えてくれてありがとう」と言われて涙が出たことがある。この両者ではえらい違いがある。あなたが初めて「見た」のはこういった扱いをあなたから受けたくないから誰も宣言しなかっただけなのだよ。
 あの講演の初めに知人のケースを分かち合っていたが、男性が男性らしく出来ない動作に「女〜」という言葉がある。「女投げ」「女走り」という言葉を聞いてそこからは何も耳に入ってこなかった。子供の頃「おかま」「おとこおんな」「死ね」と虐められた日を思い出した。二度暴力にあった思いがした。
 僕は「強制異性愛者性」と「異性愛者」は全く違うと思っている。前者はさっさとなくなっちまえと思うが、異性愛者の大事な友達に何人も恵まれている。もちろんその人々の恋愛や家庭の話も聞くし、皆でご飯を食べたり酒を飲んだりする。これは強制してこない、彼らの関係性や生活者としての命の営みだ。SOGIは関係ない。そこに僕も平等に招かれているわけだからとても嬉しいのだ。いじめられ続けてきた子供時代、苦しかった過去、苦い思い出、アウティングとその後の仲間間外れ、暴力の傷の痛み、僕はそれらすべて捨ててきた。過去は忘れ、今を大事にし、体も大事にし、お互いをリスペクトしあえる、共に楽しみ、共に泣ける、大好きな人たちと共に生きたいのだ。そしてその人々は皆、お互いの痛みを「痛み分け」し合える心の持ち主ばかりだ。だからこそありがたい関係なんだよな。落ち目でも見放さないで大事にしてくれる。だから僕も見放さない。
 日本の福音派の人って純粋なイメージがする。どれくらいアメリカ福音派の影響下にあるかわからない。一方アメリカの福音派教会のスタイル、大規模な教会運営、熱心なドネーション集金募集、伝道集会と議員との癒着とその表現団体化など肥大する宗教ビジネス化している教会の現実に疑問でなく「祝福」と誇るなら、LGBTQの痛みや多様性には寄り添うことは出来ないでしょう。韓国福音派の反対運動を見て、かなりアメリカの負のアウトリーチを引き継いで儒教価値観と結びついたものに見える。また韓国の特徴は既存の教派であって福音派のスタイルを踏襲しているところにアメリカ福音派とのリンクを感じるが、きっと彼らはアメリカ福音派が議員とズボズボの関係にあることを知らないように思う。といっても韓国の歴代クリスチャン大統領をみれば、勧告でもすでに政治家と抜き差しならない関係にあるのかもしれない。
 政治家が米家庭教会に依頼し教会が信者たちに「ホモ、地獄で焼かれろ」「エイズそれはお前らへの神の報い」と叫ばさせている間、議員は親LGBTQ団体と接触をして票を集めに行く。他者の命の消滅を望み訴えさせている間に政治家は真逆のことを「人道的」といっておこなう。この信者たちは思考が停止してるからカルトの信者と同じく疑うことなく断罪する。だからこそ政治利用される。疑わないから。
 未だにコンバージョンセラピーの「成功者」が本出しているの。その理由はいくつかあって、活動は間違いでも無益でもなかったという「証人」が生き残っていないと色んな方面で困る人が出てくるから。反LGBTQ支援候補者、そして何よりもいまだにストレートへと転換したと言い続けている本人のホモフォビアの問題である。
 陳腐なのは「同性と性行為していない=ストレート」という主張。性行為を持たなくとも同性愛者は同性愛者だ。疲れに誤魔化して決して「愛している」とは言わないし、子供を授かったら夫婦間の性行為もなくなる。なんなら多くの元ゲイ男女が精神を病み「罪人扱いで結構」と涙ながらにこの運動から離れ、長年の洗脳から少しずつ自由になり、離脱者が同性同士でパートナーシップを営んで幸せに暮らしていることを彼らは隠している。だいたいが、セラピーに集まってくる人たちは同性と性行為をしなくても自分が同性愛者であると気づいている人達で、家族にも教会からも歓迎されず追放されて来た人々なのに、自分を迫害した者のために祈れではなく、自分を迫害したものになれとは頭がイカれているとしか思えない。同性と性行為を行わないのがストレートなら、彼らはすでに「ストレート」のはずである。飛んだ欺瞞と詭弁。
 以前、「なぜお造りになられたのですか」という僕の発言に匿名の異性愛者クリスチャンから、同性愛者は性的逸脱で創造などされていないとコメントがついた。つくづく情けない人だと思う。そもそも僕は反語を使って書いたもので、神はわたしたちを創造し用いようとしているのに、その邪魔をするのはこのストレートのような不誠実で不信心な人だということを嘆いていた言葉への何の返答にもなっていない。
 まずはアメリカの福音派の政治とズブズブ(同時に金とズブズブ)な教会形成と教会活動、そして逐語霊感説の方は自分の選択的権威づけに疑問を持って欲しい。聖書が「神の言葉」であると言うことは1ミリもかわらないどころが、今までの自分の視野・視座の偏りへの気づきをいただけます。
 アメリカではLGBTQミニストリーのためのいろいろな教会や団体があります。LGBTQを神の創造と捉え地域の生活者・教会員として礼拝やサクラメントを授ける様な教会(メトリポリタココミュニティーチャーチなど)や、教会内のLGBTQミニストリー団体(ニューウェイズミニストリー)、自身のSOGIに葛藤を抱えた人々が自分が集まりコンバーションセラピーをすすめることはしないけれど生まれ変われるよう祈る(新生の拡大解釈にすぎない)立場の教会もある。面白いのは、最後にあげた教会。リーダーは自称元MTFTSであり、現在はストレート男性に「神の恵みにより」変えられたと主張している人です。大柄でな体にヒゲという絵に描いた男性性を身につけているものの、いわゆる「クイーン」の仕草や高い声のトーンはTSの時と全く変わっていないことは見ただけでもわかります。信仰の喜びよりも何らかの無理の方が僕には多く伝わってきました。彼の元には多くの人が集まります。元コンバーションセラピーのスタッフは彼のモチベーションを信仰とは言わず「権力への執着」だと語っていました。
 また聖書のパターナリズムを現在のパターナリズムをもって教えないでください。釈義は聖書テキストと共にそれを取り継ぐ自分の心や手法をよくよく吟味してください。保守とリベラルのラベリングに騙されないでください。リベラルは退けるという信仰理念もあるでしょう。しかし、保守とは教会と権力の癒着により傷つけられた人を励まし、そのような教会の在り方を鋭くクリティックし距離感を定め、癒されていくことに同行し、隣人を必要とする人の隣人となるよう勧め、福音の福の字も知らない人に福音的に、イエスの眼差しをもって関わることを可能にする神学の立場です。これらは捨てることのできない最重要課題ですね。それを保ち守るから保守なのです。新しい聖書釈義法の導入や、クリスチャンの新しいライフスタイル、すなわち何を大事にしイエスの眼差しはどうであったかを分かち合い世界へと派遣することを可能にするのは、この保守的素地があるからこそ成立するのです。リベラルと毛嫌いするか、嫌悪感に気付かず傷つける言葉で語ったところでそれはあまり意味がない。教える立場から反省する立場へと自分自身をシフトチェンジしなければ欺瞞の機構の拡大にしか寄与しません。

 最後に謝ってください。きちんと謝罪してください。もしくは苦しんでいるLGBTQに真剣に関わってください。同じ福音派やLGBTQを嫌悪する根拠が聖書にあると主張するクリスチャンに対して証を立ててください。もちろん、謝れと言われても「わたしは言っていない」となりますよね。でもLGBTQを断罪してきた人々の系譜にあなたが今、喜んで立っているなら、あなたも「死ね」と叫んだ人の一人なのです。

日本イエス・キリスト教団は府中青年の家裁判の青年部の言動の振り返りも謝罪もしていません。それは、あの教団にもLGBTQがいるだろうし、抗議をした後のいづらさを考えると、居た堪れなく、僕にはなかなか出来ません。「死ね」「ホモ」「気持ち悪い」と言った青年たちにどの様なパストラルケアがなされたのでしょうか。「よくやった!」くらいの勢いで褒めたのでしょうか。ま、どちらにせよ、その同じ口で「神の恵み」を語れるでしょうか?「完全に罪だと思っているから自責の念などないだろう」と知人の福音派クリスチャンに聞いたことがあります。しかし、聖書を丁寧に読めば、齟齬をきたしていること、そしてその様な裏表のある丁寧でない教会生活は、一体この世にあって何をうみだすのでしょう。光となることができるでしょうか?僕にはそうとは思えません。
 「死ね」と言ったのは、聖書で神が殺せと書いているからと、こともあろうに自分の憎悪を神で合理化するなら、あなたは一生LGBTQでなくとも隣人を必要としている隣人の傍らには立てません。それどころか自分の意見を聖書の文言と一致しているかの如く神で合理化することは、福音派の最も嫌いなこと、すなわち「偶像礼拝」であることに気づいていただきたい。想像力をもって他者との違和感を共に乗り越え(抱えたままでも)共に傍らに立つことを、あなたの合理化が邪魔をするからです。

 僕は全く憎んでいません。本当に教会としてクリスチャンとしてLGBTQと向き合うなら、かなりの神学的・社会学的な振り返りと、今までの聖書の読み方をいい意味で手放し、自分が抑圧の属性なのか社会の構造的差別のどこに立脚しており、何を引き受け、何から降りるのかという学びと決心が必要になります。もちろんなんかよくわからないけど仲良くてお互いあ性的指向も違って違和感ない、というのもいいのですが。同性愛者の存在が良くて性的接触が罪であることの整合性がつかない人に何を教え、何が語れるのですか?。カトリック・正教と福音派のとでは根拠が違います。その様にキリスト教でも文脈や教えの体系の違いなども対話のための一助となるかもしれません。
 勉強量やそのカバー範囲が問題ではありません。自分はLGBTQの何にはらわたするのか。強制異性愛主義と家父長制度により作り出されたLGBTQへの膨大な生きづらさに、実は教会も盛大に加担し続けて来た。それだけでなく、聖書で嫌悪を神の意思に合理化し、社会的なものと癒着して、「断罪してきた歴史」と、その歴史に対する自己認識がどうなのか自覚的にならなければ、告白もゆるしもなく、その寄り添いはいったいどんなものなのだろう。きっと表面上の嘘になってしまうのではないかな。
 いちいち言うのは面倒なんだよな。それくらいLGBTQ(世代ギャップやして来たことによる違いを超えてなお)は疲れ切っていると僕は思う。少なくとも僕は。なぜ足を踏まれている側が、足を踏まれていることを告げ、さらに足を踏み続けることの問題性を訴えなければならないのだろう。一生懸命投げた言葉は無視されるか、逆ギレされるかかなら、もう何も話したくないってなっちゃうの僕だけかなぁ。いや、世の中の女性が抱え込まされる「らしさ」や子供の頃から羽をもぎ取られて来た痛みという現実にやっと思いが近くなって来たのかもしれない。
 カトリック教会には「カトリック教会法典」という法律集があって、さまざまな規定や罰則やどのような時に対処するかが事細かに定められており、あまりにも専門的なのでローマの大学には「教会法学部」があり学位(教会法)もある。SNSには聞き齧った教会法を文脈違いで発言するセンスのないカトリックがたくさんいる。その全てが相手を否定するために教会法の文言を用いている。僕は神学校で教会法の授業のはじめに「教会法というものは教会法など知らないカトリック信者を法的に守るための法律です」と教授からおそわった。その言葉に打ちのめされた思いがし、教会はそういうところでなければならないと強く思いを新たにしたのを覚えています。"AIDS FUCKER GO HOME"という罵り言葉を受けている人にこそ、第一に神の愛と救いがもたらされなければならない。なぜな教会はその人を社会と結託し見捨てるならば教会の自己規定(Lumen gentium=諸民族の光)と齟齬をきたすからです。キリスト者としてどこに立つのか?これは学術的な問題である以上に、イエスからの問いかけだと思うのです。


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