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福音に生きるためわざわざ秘跡で養われる

「聖書一冊を一言にしたら何だ」という問いにはとてもシンプルな答えがあります。「神である主を愛すること」「自分を愛する様に隣人を愛すること」。神を愛するとは、私たちが生まれる前から愛して愛し抜いてくださる神様の「先の愛」を知ってほしいということ。

神の愛を味わい満たされ、神が愛してくれる自分を大事にしてあげること。なかなか自分を大事に出来ない時期や事情や傾きがあっても、それでも自分を大事にしてあげる。楽させるのではなく大事にしてあげる。大事に出来ない日はそんな自分を責めず、神の愛を(人と人との間にあります)を思い出して。

神の「ご大切」に満たされ、神に立ち返れば神は無条件に罪を赦して和解の恵みをくださいます。神との和解は自分自身との和解、そして他者との和解の重要性へと導きます。完全な赦しの恵みを知らなければ条件付きの許しでなければ不安になるのは当然。だから和解は必要。

「先の愛」である神は神のご大切である秘跡で養い導いてくださる。この愛の地平は、今わたしたちに神が必要であると準備してくださった約束の地なのかもしれません。もちろん差別、搾取、暴力は神様の愛からかけ離れたものなので、自分をそこに結びつけたままではいけません。

内外共にダイナミックな神の愛に突き動かされた経験をいただいたキリスト者は読んで字の如くキリストの眼差しに立つ者としてこの世にあって旅する教会と共に生きてゆきます。その天への旅の歴程には必ず隣人との出会いがあります。しかも隣人を必要としている隣人との出会いです。

隣人と出会い、向き合い、想像力をもって相手に聴くことは「ほねおり」なことと言えるかもしれません。しかしイエズスの優しい眼差しや福音書に書ききれない行間に見えるイエズスのご生涯を観想するならば、せめてイエズス様ににっこり微笑んでもらえる選択をしたいと思うのです。

福音的視座や生き方と熱心なカトリック生活ではちょっとニュアンスや目に見える現実が違って思えることがあるかもしれません。ただイエズス様の思いと愛に添わせて生かせてもらうため、あえて教会を信頼し聖母の祈りのうちに秘跡の恵みに大胆に頼り恵みに満たされましょう。

いつか天へと有限の肉の命から永遠の命に過ぎ越してゆくまでには、イエズス様の優しさに貫かれて、穏やかに控えめに静かにキリストの香りを馥郁させながらイエズス様の優しさと聖母のきめ細かい配慮と祈りとに結ばれて生きる小さなカトリック者でありたいと思います。
今のままでは課題山積みな僕です。ゆっくり、急ぎましょう。

ほとんど加筆訂正はないが、タイトルをつけました。「福音に生きるためわざわざ秘跡で養われる」。変なタイトルですね。この「わざわざ」という日本語をイタリア語にすると"espressamente"意味は「明示的に・根拠ある決意をもって」となります。「私が秘跡を受けるのは、イエズス様と共に、イエズス様の選びのうちに生きていくために必要な養いだからです」という意味になります。


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