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聖週間

昨日の日曜日からご復活前の一週間である。一年でこの一週間だけ「聖週間」と呼ばれる。

 受難の主日(棕櫚の主日)から受難の月曜~受難の土曜日とすごし、中でも絵画などでも有名な最後の晩餐において聖体を制定し互いに足を洗いあう (仕えあう)ことを教えた聖木曜日、十字架につけられた聖金曜日、聖土曜日とすごしてゆき、一週を終えた週の初めにはいよいよ復活の主日・イースターを迎える。ち なみに英語ではそれぞれPassion Monday Passion Tuesday...と表記し、聖金曜日だけはGood Fridayと書く。ずいぶん前の日記に書いた記憶が。ま、いっか。金曜日こそがpassionなのにgoodと言い表されることに深い意義を感じる。

 この日曜、二千年前の人々はイエスのエルサレム入城を棕櫚の葉をかざし王を迎えるように歓呼の声を上げながら迎えた、がしかし、たった四日で同じ 人々が権力に負け、陰謀や欲望が支配する中、イエスを殺せ、あの男をぶっ殺せと叫ぶ。この二千年前の人々の姿は変わることなく人間の弱さや脆さ、自己中 心、利己的な姿を現しているように思う。自分の利権にならない人をさっさと切り捨ててしまうことや切り捨てられてしまうことにあまりにもなれてしまった社 会への警鐘に思えてならない。

 社会の底辺、周辺、その外側で暮らすことを余儀なくされている小さくされた人々と共にいき、その人たちの人間性を回復し、自信と勇気と慰めを分か ち合い続けたイエスの人生の最後は十字架にかけられてぶっ殺されるという犬死ともいえる末期。苦しいものを苦しい、おかしいものをおかしい、痛いものは痛 いと感じることも考えることすらもやめさせられている人々に、自分自身の価値と当たり前のことは当たり前と感じてもいいんだと人々を呼び覚ませたイエスは いわゆる格差の上にある人々、富や権力をもっている人々にとっては、寝た子を起こし、臭い物の蓋を剥ぎ取るはなはだ面倒くさい人物であった。そして彼らは 宗教的権威をもってイエスの死刑を正当化する。その様は現在の社会の姿となんら変わらないように思うのは僕だけだろうか?

 しかし十字架の死は犬死では終わらない。抹殺され摘み取られ命を失った骸が置かれた空虚な墓はイエスの復活により勝利の象徴へと変えられる。徹底 的に小さくされた人々と共に歩み、憐れみではなく共感・共苦を、権力への迎合ではなく真実を突きつけ山は身をかがめ谷は身を起こし、貧しい(それは経済的 だけではなく権利を剥奪された弱さも意味する)者を高め驕り高ぶるものを虚しく帰らせることを望み、そのどうしようもなく貧乏くじを引いてしまった人々の 感性をとおして語りかけられる神は、その神に徹底的に従い死をも引き受けたイエスをよしとされ、復活という新しい命へとお移しになった。不可能を可能に し、格差の逆転、存在意義を思い起こさせ、尊厳と自由を回復される。

 キリスト者は、苦しみそのものには意味はないが、イエスの十字架に結ばれた苦しみの向こうには、何にもかえることのできない、新しい命と、喜びと、平安が必ずあるということを知っている。そして命はどこから来て、どこへ向かい、その命は誰に望まれているかを知っている。ということは、人の一生の中でた びたび起こる闇も、その闇そのものには意味はなくとも、イエスの十字架に結ばれ神に信頼を置き歩みを始めるとき、それは決して落胆と悲しみに終わることな く、必ず喜びと慰めと安らぎへと変えられることを知っている、ということだ。すべての闇に同伴し、すべての闇を明るみへと引き出し、嘆きを喜びに、苦しみ を安らぎに、悲しみを歓呼の叫びへと変えられることを知っているし、イエスの十字架と復活こそが、まさしくそのしるしであり、その保証であり、その根拠な のだ、と信じている。

 以前、キリストの復活を信じているなど科学的ではない、と言われたことがある。僕は科学がどうなのかはよくわからない。ただ、イエスが蘇生したと は思わない。蘇生はまた再び死に帰するものであり、復活は終わりのない命なのだから。まったくもって話の枠組みが違う話なわけである。そして、その人がたとえばイエスの復活を信じようと信じまいと僕にはあまり興味はないし、説得するつもりも無論ない。大事なのは、僕が、悲しみは悲しみに終わらないという希望を、イエスの復活において信じるか否か、ということであり、その人がどうかということではない。

 キリスト教というものは実に厄介なもので、宗教的側面をたもちつつ、実は生き方の軸であったり根拠のように思う。宗教的行事や出来事は本質ではな い。十字架と復活の信仰とそれに根ざした生き方の希求は、この現代社会で、誰でもないこの僕が、今、ここで、生きるときに、その命をどう生き、本来備わっている自由をどう生き、与えられた命をどこに向かって どのように生きるかを示す道標であり、根源であり、目的地を示す生き方そのものをイエスの生き方と言葉の中に見出し続けたいという濃縮された同心的意思であり、それは遠心的結果として人々との関わりを通して社会へとどう関わってゆくかを導く意思であり、引き受けであり、思惟であり、信仰なのではないか、と思うわけだ。こ れは実に厄介。

 しかし、一度イエスのまなざしに触れると、それは一生忘れることはできない。惹きつけられ、魅了され、そこへと信頼し、歩みをおこすよりほかはな いように思う。それは厄介でありながらも、見ることのできない視点、言葉にできない痛みを言葉に出してもよいという根拠、自分の弱さとその弱さへとなおふりそそぐ神の愛の優しさの発見であり、結局はその支えの中、弱い自分こそが、生き生きと人々との関わりの中で生きる主体であり、生かされる存在であるということを教えてくれるように思う。

 十字架の死と復活はどんな弱さもどんな痛みもどんな闇にもよりそうことのできる、希望と弱さの中の力という逆説的でかつどんな否定の中でも自己存在を肯定することのできる受苦可能性であり、生への圧倒的な肯定的力である。

 この一年、この弱く面倒くさい自分も、人々とのかかわりの中で生き生かされ、みな横一列にお互いの存在を喜び合うことができるよう、祈り、信頼を持って歩みを起こしたいと思うものである。特に聖母マリアの取り次ぎと扶けに頼りたいと思う。

April 08, 2009(一部加筆修正)

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