わたしはあなたを喜ぶ

「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」(Ⅰテサ5.16-18)

あるSNSで聖パウロのこの言葉についての投稿を読んだ。実に難しい要求だ。ある意味無理なことだ。それをより難しいものにしているのは、これら全てを「自分のこと」として考える時ではないだろうか。

もしこれが、日々ともに立ち、生き、歩む人のことを喜び、その人のため祈り、そしてその日々を感謝の日々に至らしめることは可能ではないだろうか?

イエスの福音は、私が何をなすかではなく、隣人と共に、神の前で、恵みを分かち合う生き方だと思う。でも人間はそんなにうまくできてはいない。大事な人をすら喜べない日もある。そんな時をこそ、兄弟姉妹や天の先達の祈りに頼り、神さまの摂理に信頼したいと僕は思う。運命は冷たいが摂理は暖かい。

聖書が告げることは愛であり、愛とは大事にする決意とその実行だ。自分を大事にすること、隣人を大事にすること、それがすべてだと僕は思う。すでに与えられた救いが要求するものだからだ。もし、そこに隣人も神も不在なら、その愛も奉仕も善業もすべて偽善だ。残念ながら、己の為の救いの先行投資などはない。全ては神さまの先行する愛に対する応答だからだ。

聖書の言葉は相互補完しあう。それこそが神の霊感といえる。神さまの前に立ち、神さまに聴く以外、わたしたちにできることはない。その神さまの本性は愛であり、愛しか差し出すことがおできにならないほどに愛そのものである御方。そのことと聖書の言葉が結びつかないのならどんな意味を見出せるだろうか。

神さまの愛の本質とは、条件付きの許しではなく無条件の赦しと、常に寄り添う大切さ。わたしたちは無条件に赦すことはできない。ただ、神さまの赦しと寄り添う愛に結ばれた時可能になるように思う。喜びは楽しみという感情ではなく神さまの愛に触れた魂の震えだ。神さまの愛に触れる自分だからこそ、神さまの愛に結び合わされた自分が先行し、喜べないものをあえて「喜び」として数え上げる決断を可能にする。それは「自ら」に「由る」心の「自由」に依拠し、その自由の根拠こそ神さまの愛、神さまは愛であるという現実。

聖パウロの言葉には次の言葉が結論として書かれている。「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」これは一体どういうことだろうか。

神さまはわたしたちを強いて何かを行わせたり、服従させるお方でないことは、わたしたちは聖母マリアへのお告げの出来事を通じてもすでに知っている。

喜べないものを「喜び」とする「自由」をわたしたちは得ている。隣人と共に立ち、神さまの前に立つということは、祈りを唱えるのではなく、今、祈りに生きている姿である。そして、過ぎた日のそれらの出来事を振り返り、祝福として空の手で受け取るキリスト者の生活は、どんなことにも感謝するという現実なのではないだろうか。それら全て、神さまが先行し、共に寄り添ってくださり、大事にしてくださる。この救いの福音をキリスト者は知っているのではないか。

「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」というイエスに注がれた神さまの愛の声は、誰も土足で踏み込むことのできないわたしたちひとりひとりの心の内奥でも、同じように囁かれている。神さまのはじめの愛、先行するご大切にいつも立ち返ることが出来ますように。これこそ、キリスト・イエスによって、神さまがわたしたちに望んでおられること、だと僕は思っています。

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