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【登山記録】石川県低山シリーズその7:七尾城山

久しぶりの低山シリーズです。
今回は、石川県七尾市の七尾城山(標高380m)に登ってきました。
歴史の学習も兼ねてのハイキングです。

七尾城山にアクセスするには、
1.自動車で七尾城址資料館の駐車場に止めて登る
2.市内循環バスで資料館前のバス停から登る
3.車で頂上近くの駐車場まで行く

の3つがあります。
さて、自分は一応ハイカーの端くれでもあり、可能な限り公共交通機関で行くテーマがあるので、今回は七尾駅から循環バスで資料館前のバス停まで行き、そこから登りました。

JR七尾駅
駅名標と名物ののれん
資料館前のバス停
登山道へ向かいます
入り口

さて、ここで七尾城について簡単な解説を。
室町時代、各地を治めていた守護(戦国大名の原形)という人たちがいまして、当時の能登半島を治めてたのが畠山氏という一族でした。
最初は山の中腹にポツンと砦程度のものがあったそうですが、徐々に規模が大きくなり、複雑に入り組んだ地形を生かした天然の要害が作られたとされています。
戦国時代に入り、越後の龍こと上杉謙信が京都進出の足掛かりとして北陸地方に目をつけ、その拠点にこの七尾城攻略を計画しました。
ところがこの天然の要塞を攻略するのは相当な難事業でした。

トレッキングに話を戻します。
登山口から頂上(本丸)まではおよそ2.4キロ程度。ほぼ登りっぱなしです。
ところどころに解説の看板があって親切。

高屋敷跡。城下のお屋敷跡です
徐々に登山道っぽくなってきます

登ってるうちに思ったのは、とにかく地形が複雑。尾根伝いの九十九折りの登りと、谷を利用したポイントがあちこちに設置された跡がありました。

細長い急登を登りきると、そこはだだっ広い三ノ丸跡。
当時も多くの兵が詰めていたんでしょう。
なんとか敵の攻撃を掻い潜って、息を切らしながらなんとか登ってきたと思ったら目の前には大量の敵兵が待ち構えてるとか、絶望しかないですねえ…

三ノ丸跡
三ノ丸跡。めっちゃ広い
大堀切。尾根を意図的に切り崩した侵入防止

三ノ丸から二ノ丸、本丸は繋がっていますがその途中にもいろんなポイントがあります。

二ノ丸にある看板
二ノ丸。こっちも広い。
二ノ丸には石垣がありました
温井屋敷跡。
有力家臣だった温井さんがいました
九尺石。
石垣に使われたでっかい石

さらに本丸に向けて進んでいくと、有力家臣の遊佐さんの屋敷跡や軍馬の訓練場があります。
ようやく頂上に辿りつくかと思ったらまだ難所が待ち構えてるわけです。

遊佐屋敷跡

さて、いろいろ寄ってたら遅くなりましたが、登山開始から約1時間で本丸到達です。標高380m。

本丸跡
七尾城址の碑
本丸から望む絶景。
七尾市街、七尾湾と能登島です

さて、歴史のお話。
攻撃開始から約1年の時間を要し、ついに七尾城は陥落します。
さすがの上杉謙信もこの城の攻略には手を焼いたわけですが、この城がもつ重大な弱点に目をつけていました。
それは、畠山氏内部の権力争いです。当時の畠山氏は当主が頻繁に変わってて、実権は家臣たちが握っていたとされています。この時も、上杉方につくべきとする意見と、福井県方面から進撃してくる織田信長につくべきという意見が真っ二つに分かれていました。
上杉謙信は自身に友好的な一派と接触し、ついに城門を開けることに成功します。織田方につくべきとしていた一派を排除し、七尾城に入城し、本丸から見下ろす景色を賞賛したそうです。

上杉謙信による感想

ほかにもこの七尾城の景色の美しさを表現した詩を詠んだとされています(他の人によるものという説もあります)。
七尾城を攻略した上杉謙信は、手取川で柴田勝家率いる織田軍と激突して見事勝利しますが、その直後に春日山城で急死します。
七尾城は上杉の影響力が衰え、織田信長の家臣だった前田利家が獲得します。その後、徳川幕府が制定した「一国一城令」の発令により、廃棄されました。

本丸にある城山神社にお参りして、いそいそと下山。

城山神社
城の水源。
枯れたことがないらしい(ほんまか?)

麓まで降りてきて、城址資料館と、その隣にあった懐古館(庄屋さんのお屋敷)に立ち寄りました。
懐古館のご主人に、城を登ってきたことを言うと「あんたマニアやな」といわれました笑

循環バスで七尾駅に戻り、電車に乗って帰りました。
七尾駅のホームに着くと、観光列車に2台遭遇するちょっとしたラッキーがありました✌️

花嫁のれん
のと里山里海号

とりあえず、七尾城山編はこんな感じでした。
山城はロマンがあって楽しいですね。
2023年、ようやく10座目の山でした。なんとか10月中にもう一箇所行きたい。

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