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樋口新葉と春の訪れ〜メダリストオンアイス2021に寄せて〜

12月17日の昼下がり、何気なく動画のシークバーを動かしながらフランス杯のエキシビジョンを観ていたところ、ピアノが特徴的な映画音楽の巨匠ルドヴィコ・エイナウディのフレーズが聞こえてきた。

少し時間を遡ると現れたのはなんと樋口新葉である。昔はジャンパーの印象が強かったが、今や着氷がなめらかでスピンも優雅な大人のスケーターになられて感嘆しきりであった。そして楽曲ファンとして大歓喜、大納得の演技であった。

なぜこれほど喜んだのか。自分は戯れに男子フィギュア向けプログラムをイメージして定番と思われる音楽ではなく独自に選曲をしたSpotifyプレイリストを作成していた。その架空リスト内の一曲が「リアル」で使用されているのを目の当たりにしたからである。

しかも彼女の演技を観て、女性のほうがこの曲に向いていたと理解した。固定観念が崩れた。現実が想像を上回った。

この曲を日本の大舞台でも響かせてほしいと願った。

そして、願いは叶えられた。樋口新葉は全日本フィギュアスケート選手権2021において第2位に輝き、北京オリンピック代表権を掴み取った。

タイトルであるPrimaveraとはイタリア語で「春」を意味する。

この曲の愛好者として思うのは、単に「きれい」なだけでは扱いきれないであろうということ。春の芽吹きには残雪と凍えた土を押しのける力が必要になる。そこに彼女が辛抱強く蓄えてきた「逞しさ」がぴたりと当て嵌まり、練られた滑りを通し音楽に実体を与える。

始まりは探るように一音一音奏でられるピアノに導かれる。楽曲が響きの方向を変えるたびに機敏に反応するスケーティングの軌道にダイナミックなジャンプを乗せ、のみならず着氷の衝撃をやんわりと腕から指先へ逃してゆく。トリプルアクセルでさえも。

徐々にオーケストラが加わり底から緊張がせり上がり切ったところで、冬を引きずる空気を翻弄するヴァイオリンが降りてくる。それでも彼女は揺るがない。片側ずつ羽根を広げるように手腕を使い優しく迎え入れる。そして一歩でも遅れたら突き放される目まぐるしいメロディに対し弾力のあるステップが捉えて離さない。道中の振り付けに右膝を付きながらリンクに滑り入るニースライドまであり圧巻である。

クライマックスは落ち着きを取り戻すピアノを起点に多様なスピンを連続に打つ。遅すぎず速すぎず一定の回転を根気強く保ちながら、緩やかなメロディに合わせて腕と指先の表情まで細やかに披露する。最後まで情感が途切れない安定性に舌を巻く。

一足早く、さいたまスーパーアリーナに花が舞い散る春の嵐が吹き抜けていった。