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多様性、どこから始まりどこへいく〜魂の叫びシリーズ〜

(いつも、なるべく正確であるとか、公平であるとか、冷静・論理的(私なりに)であることを意識してnoteを書いているのですが、時々、感情的な面も書こうかな、と思って”魂の叫びシリーズ”という言い訳をつけて書いてみることにしました)

いつも、「同時」だの「継次」だの、固い言葉で書いているけれど、
この話を噛み砕いて周りの人にすると、
たいてい、ものすごくウケる。
笑ったり、そうそうそう!と言ったり、だったらこれもそうかな?
なんて、話が止まらない。
血液型とか星座とか、そういう話より、よっぽど皆、前のめりになる。

この話は固い話なので
「まーみさんは、何に興味があるの?」と質問された時だけ、
難しい話で恐縮です、と前置きしながら、話すことにしている。
するとこちらが驚くほど、大きいリアクションが返ってくる。
美容院などでの雑談でもそうなるし、
大学での修士論文の途中報告をした時も、皆、ものすごく集中して耳を傾け、
院生でも教授でも、必ず後から私のそばにきて、その話題を振って、感想と持論を展開してくる。
みんな、そんなにこの話、面白いのか!
と、こちらが驚くほどだ。

誰もが
「我が意を得たり」
になるようだ。
今までされなかった自分の内面の部分を、肯定されるように感じて
夢中になるのだろうか。

多様性だとかインクルーシブとか。
どっち向いて話してるんだ?という話だ。
障がい者であるとか、LGBTQIA+とか?
”マイノリティー”を「混ぜる」ことを指して、それについてを考える人もいるようだけど、そうじゃない。
”定型”?
定型、ってなんだ?
”マイノリティー”じゃない人は、皆同じなのか?
そこに”混ぜる”のがインクルーシブなのか、多様性の確保なのか?

いやいや、
みんな違うでしょう。
あなたも私も、みんな違う。”定型”なんてない。
違うことが意識化されてない。
小さい頃から大人になるまでの間、
一様に同じ課題に取り組み、
同じ基準で評価され、
その評価の上下がわかるだけで、
「あなた」が、どういう特性を持つ人なのかを、本人自身に意識させにくい。

だから、「同時・継次」の話をすると
自分の個性が明確化されてウケるのだと思う。
(子育て中の人だと、自分の子どもの話をよくする)

それを、
もっともっと当たり前にする。
学校教育でも、
会社の新人教育でも、
自分で自分の学習方法を考えるときでも
当たり前の考え方になったらいいなと思う。
少しは、人の情報処理方法に多様性を認める。
たとえば、学校で、一人ずつの個性に応じてとはいかなくても、せめて2・3種類の教材(宿題)を用意する。
2・3種類ある、というだけで、「それなら自分は”どれ”を”どう”やるのがいいだろう?」と考え始めるきっかけになる。
”どう”がそれぞれ違う。
自分はどうだろう、他の人はどうなのか、考えることが習慣化されれれば、
大人になったとき、仕事上の伝達の仕方は、自分だったらこうして欲しいけど、他のタイプだったらどうすればいいかな?と自然に考えることができるようになる。
または、他の人はどうかわからないけれど、自分には「こう伝えて欲しい」と、
考えたり表現したりできるようになっていく。
それも、構えず、自然に。

そういう社会にならないかな、と思う。
「最近は、”多様性”への対応とか、うるさいんですよ」
ではなく、あなたも、多様であるから、
自分にとって良いやり方を選ぼうね。
そうして、他の人にとってもやりやすいやり方を選ぼうね。
というふうになったらいい。
”マイノリティー”への配慮は、その延長線上にあるはずだ。

「そうでない人」を「そうである人」に混ぜることではない。

ってさ、
もう、ほんと、
いつもいつも思っているんです。



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