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ポジティブ&ネガティブ

 平成21年初夏。世間は混迷を極めていた。
 株価は世界的な不況で大暴落し、某国は周辺諸国の非難を受けつつも核実験を断行し、豚インフルエンザで多くの者が倒れた。近々、記録的な大型台風が首都東京を襲うという。スカイフィッシュも大量発生するに違いない。

 おれはというと、東向きなのに窓と隣家が近すぎて朝の光がほとんど差し込まないワンルームアパートで、絶望的な気分で目を覚ましたところだ。体が二日酔いの苦難を訴える。それというのも、昨夜楽しく合コンで盛り上がってカラオケオールしちゃったため、ではなく、「祝・初回から13回連続一次面接落ち記念一人飲み会」が開催されたためであった。
 かろうじてベッドには移動したようだが、いつ終宴となったものか記憶がない。
 ぼうっとしていると電話が鳴った。アルバイト先の家庭教師派遣センターからだ。
 「も、もしもひ」二日酔いでうまく声が出せない。
 「あー今だいじょうぶでしょうか?家庭教師のフライの中崎です。実はね、先月から入ってもらっている生徒さん、小島さんのお宅からご連絡がありましてですね」
 「あ、はい」
 小島さんはいまどきの中学3年生の女の子で、顔はなかなか可愛いが無愛想でろくに喋ってくれない。しかし焦りは禁物、信頼関係の構築はこれからである。
 「残念なんですが、あなたのことを、小島さんの生徒さんがイメージされていた先生と少し違うようだと仰っていて。落ち度があったとかそういうことじゃないんだけど、やっぱりできれば女の先生がいいと、ええ」
 「えっ? あ、そうですか・・。じゃ、来週からは行かなくていいってこと・・でしょうか?」
 「いやーすみませんー、またすぐに次ご紹介できると思いますので。またよろしくお願いしますー、失礼いたしますー」
 頭が回らないうちに電話は切れた。
 空っぽのウォッカの瓶が、部屋の中央のちゃぶ台の中央に轟然と鎮座し、脇では扇風機があらぬ方に向けて首をちんたら振っている。足元に転がっているコップからこぼれた液体が、安物のカーペットに染みを作っていた。
 おれも世間とどっこいどっこいで混迷を極めている。

 しかし、このままワンルームで混迷して1日を終えようものなら、明日の夕刻に約束をしている14回目の一次面接の結果も保証されたようなものだ。おれは奮起してシャワーを浴び、そしてゆっくりゆっくりと準備を整えてから大学へ向かった。外に出てみると意外に調子は悪くない。この3年間で嫌というほど二日酔いを経験したので、少しは免疫がついたのか。
 自転車を生協の脇に止めると12時4分、2限終了まで残1分であり、もはや教室に潜り込むのも手遅れだ。おれは渡部にメールを送った。「飯」。鐘が鳴る。携帯が震える。「応」。
 渡部とおれは、いろいろな点で対称的だった。渡部は明るくで社交的で、長身でおしゃれで、女の子によくもてた。おれはついつい場の雰囲気を読まずに毒舌を吐いてしまうたちで、自分で言うのもなんだが外見は垢抜けず、不器用で何をしてもさまにならない。女の子にもてるはずもない。いったい渡部のような、いわゆるイケてる奴が、どうしておれのような男を友人と扱ってくれるのか理解しがたい。
 にも関わらず、大学入学直後に知り合って以来、おれたち2人はしょっちゅうつるんでいた。今では渡部はおれにとってほとんど唯一の親友である。
 おれたちは親友であるだけなく、妙なところで一致することがあった。たとえば、生協の食堂でおれが適当に5皿を選ぶと、たいていそのうち4皿ほどが渡部のチョイスとかぶっていた。事前に食べたいものの話をするわけでもないし、選ぶのが面倒でいつも決まったようなものを食べるわけでもないのに、面妖なことである。また、2年生の夏学期などは何も示し合わせていないのに16コマ中15コマの授業が同じになり、ホモ説を囁かれた。
 そのくせ、13回連続面接落ちするあたりではまるで一致を見せず、渡部は当然のように一流企業の内々定を得ているのだから、世の中は玄妙なものである。
 「2限出た?」
 「今日はめずらしく最初から出たよ。お前の分のレジュメもとっといた」
 「わりぃな」
 おれは湯飲みに入れた冷たい麦茶を一口飲んだ。二日酔い明けの体に染みる。
 「就活進んだ?」
 「いや、13連敗中だね」
 「大変だな」
 「行くだけ交通費のムダだという気がしてきた」
 「そんなことないだろ」渡部はおれが惨めな状況に陥っても、馬鹿にしたり哀れんだりはしない。おれのプライドを傷つけない程度に励ます。
 「お前落とすなんて人を見る目がない企業だろ。そんなとこに行かなくていいよ」
 「じゃあそう考えとく。でもなんかバイオリズムが悪いな。幸子との関係もここのところよくない。こないだ久しぶりに会ったときも、ずいぶんとそっけなかった」
 「きっとあんまり会えないからさびしいだけだよ。たまにはゆっくり一緒に時間を過ごしたらいい」
 「そうだな」
 おれたちは同じタイミングで、とろろをかけた麦飯の最後の一杯をかきこんだ。
 「でもさ、なんかコツとかないかな?あの、就活ね。いちおう、ウチって有名な国立大学なわけだし、いくら不景気でも、普通、もうちょっといけそうなもんだよね」
 そんなふうにおれが率直に渡部の助言を求めるのはめずらしい。気持ちと体が弱っていたせいだろう。普段なら、どう見ても自分のほうが人として器が小さいとわかっているのに、粗大ゴミのようにやっかいなプライドが邪魔をして、おれは渡部と対等であるかのように振舞ってしまうのだ。
 「うーん。いや、お前はお前でいいと思うけど。まあ、慣れもあるよ。お前は一度何かを掴んだら一気に腕を上げるタイプだから。でも強いていえば」
 「うん」おれは謙虚な気持ちで友人の次の言葉を待った。しかし渡部の次の発言は、実に衝撃的なものであった。
 「もうちょっと、ポジティブ、な態度を見せるといいかもなあ」
 おれは返す言葉を失った。なぜなら渡部の口から出た「ポジティブ」という指針は、おれにとって絶対に受け入れられないものだったからだ。
 どう反応したものか迷っているうちに、以前からたびたび感じていた疑念がふつふつと湧き上がってきた。
 渡部は先刻の問題発言を発しただけあって、自身が常にポジティブな男である。そしてそんな彼に救われた場面がこれまで何度となくあったことは認める。だが万一、おれの疑念が的中していた場合、おれがこの男と親しくしたり、教えを請うたりすることは断じて許されないことなのだ。
 実を言えば、これまでもその疑念について確認すべきかと考えたことはあったが、もし本当にそうだったら、という恐怖に勝つことができなかった。
 しかし、この際やはり決着はつけるべきであろう。きっと、蓋を開ければ杞憂に過ぎなかった、ということになるはず。
 「あのさ、渡部。おれ、前々から思ってたんだけど」
 「なに?」
 おれは深呼吸した。
 「お前、あれか?もしかして、ポジティブ党?じゃないよな?」
 渡部は「おお、そうだけど、それがどうか・・」と気軽な口調で答えかけたが、おれの表情が一瞬にしてただならぬ様子に変化したことに気づいて、不審げに眉をひそめた。
 「渡部、おれ、ネガティブ党なんだ」
 永遠に続くかのような気まずい沈黙があった。そして、おれたちは再び同じタイミングで、「温かい」と「冷たい」の中間くらいの温度になった麦茶を飲み干した。

 3限は倫理学の講義だった。授業のごときは無論、右から左に受け流すが基本である。まして今日は、最近のもろもろの不調にくわえ、学内唯一の親友と恃んでいた男とともに天を抱かざる関係にあったという衝撃の事実を知り、おれは呆然自失の状態にあった。
 「・・さて諸君。かくしてダーウィンの進化論は、最終的には世に広く知られることになった。ところで、諸君に改めて考えてもらいたい。生物は進化しているということだが、人間は有史以来進化、あるいは進歩してきたと果たしていえるのだろうか? 戦争なんていう最も愚かな行為は、昔から今に至るまでちっともなくならない。それどころか、核兵器なんてとんでもないものが登場して、ますます悪くなっているんじゃないか?」
 そう、状況はますます悪くなっている。内定ももらえず、バイトもクビになり、幸子の心さえとらえきれていないのだ。
 なぜだ?おれが、ネガティブ党の党員だからだというのか?
 「最前列の、ピンクのポロシャツのきみ。どう思いますか?」
 「たしかに、科学や技術の進歩は、悪いほうへも向けられてしまっているのは事実だと思います。ですけど、暮らしは昔より豊かになり、ちょっとした病気で亡くなる人も減りました。進歩はしていると思います」
 「なるほどね。じゃあ、二列後ろの、白いブラウスの彼女、どうですか?」
 「わたしも、人類は進歩しているとおもいます。というか、悪いほうばかりに考えすぎずに、いいほうに向かってるんだ、って信じることが大切だと思います。日本の戦争だって、反省すべきことがいっぱいあったと思うんですけど、そこから気持ちを切り替えて、みんなが復興を頑張ったから、今私たちがこうやって平和に暮らせているんだと思います」
 おれは、腹が立ってきた。いかにもタイミングが悪いというか、みんなで寄ってたかっておれのことを批判しているようにしか聞こえない。気づくとおれは椅子から立ち上がっていた。
 「否!暮らしは良くなったと言った人がいたが、素朴な生活をしていた時代と現代で、現代人のほうが幸福であるとはあなたは言い切れますか?そして、病気で長生きしても、暗い現代を長く生きたところで不幸が拡大するだけだ!」
 指名されてもいないのに突如激しく興奮したおれを見て、みな度肝を抜かれた様子であった。
 「それから、次に発言した女子!いいほうに向かっていると信じることは果たして正しいか!何かとんでもない失敗をしたのに、失敗は成長の糧になる、とか嘯くのは、都合の悪いことから目をつぶっているにすぎない!後ろを向いて反省したほうがよほど誠実ではないか!」
 教室は騒然とした。教授も、授業ごときでここまでヒートアップする馬鹿な男は見たことがない、といったふうに目を丸くしている。
 するとそこへ、
 「それはちがう、それはちがうぞ!」
 と静かに、だが力強く言い放った男がいた。聞きなれたその声は果たして、昨日までの友・そして今や天敵となった渡部であった。
 「もし生きていればいるほどに人は不幸になるとするなら、人類は何のために今日まで生きてきたんだろうか?それは生きていてれば喜びや楽しみがあるから、明日への希望があるからだ。それから失敗を前向きにとらえるのは、都合の悪いことから目を逸らすのとはちがう。失敗を受け止めたうえで、それをどう自分の成長の糧にするかを考える、真に前向きであるとはそういうことだ!」
 明瞭な声で堂々と反論する渡部は、天敵のおれから見ても颯爽としており、周囲の女どもがぼうっとして渡部を見上げる様子が嫌でも目に入った。おれは目茶苦茶に腹が立った。
 「そんな正論を吐くのは簡単だが、しかし、そんなことを言って中身が真に伴わない軽率なポジティブ論者がどれほど世の中にいる? 政治家なんかほとんどそれだ!」
 「それは偏見だ、君の歪んだ目が世界をそう捉えるに過ぎない!」
 「なにを!」
 おれたちの熾烈かつ不毛な対立に触発され、ごくありふれた日常の一コマであったはずの授業の場は、進歩派と非進歩派、すなわちポジティブ派とネガティブ派に分かれた戦場へと変貌した。喧々諤々の議論の末、怒りのあまり席を蹴って退出する者が30名にものぼった。
 しかし、時勢には逆らえぬ。いくらおれが獅子奮迅の活躍をしたところで、多勢に無勢といおうか、ネガティブ派はじりじりと敵に押されていった。総帥たるおれ自身も、二日酔いのボディブローもあり、心身ともに激しく減耗しつつあった。
 頃合やよしと見計らったか、長らく議論を黙って聞いていた教授がようやく場の収拾にかかった。
 「実に面白い議論だった。多数決で物事を決めるべきではないが、大勢の意見としては進歩派に傾いているようだ。しかし、ダーウィンが進化論を唱えたときより以前だったら、議論はこういう結果にはならなかっただろう。昔はね、最も良かった時代は太古で、世の中はそれ以降どんどん悪くなっていくという考え方が普通だったんだ。典型的なのは宗教で、キリストや仏陀が最上の存在で、その教えからできる限り離れないことが大事とされていた。つまり、人は歳をとったり、時代が進んでも向上なんかしない。悪化しないのが精一杯、というのが常識だったんだ」
 おれは、ほう、と思った。世の中はどんどん悪くなっていく?人は向上なんかしない?そんなネガティブな価値観に時代が傾いた時代があったというのか?
 そうか、その手があったか。
 おれはそのままふらふらと椅子から立ち上がり、教室後方のドアから廊下へ出た。

 小学生の時分、近所に住む一つ年上の太っちょの男の子が自殺した事件があった。
 皮口君というその男の子は、太っているが気は弱く、喋るのが苦手ですぐどもってしまう。他の児童にいじめられており、学年が違うおれたちもそのことは知っていた。
 身近で自殺事件が起きたことは衝撃的だったし、小学生の自殺というのは珍しいのかちょっとしたニュースになり、テレビの取材が来たりしたため、おれたちはいっそうそわそわした。先生は「いじめがあったとか聞いてませんか?なんて質問をしてくる心ない取材の人がいるかもしれませんが、決して余計なことを言ってはダメ。何も知りませんとしか答えないようにね」と厳しい口調で生徒たちに言い渡した。
 おれは同級生の泡田君と下校しながら、2人とも皮口君とは個人的なつながりもなかったのだが、家が近所という妙なプライドから、あたかもよく知っている人のように皮口君についての思い出を語った。しかし、いかんせん情報の質・量に乏しく、「ポテトチップスより芋ケンピが好きだった」「去年の運動会の100m走でこけていた」といった盛り上がりに欠ける題材しか出てこない。
 そんななけなしのネタさえも尽きたころ、泡田君が突拍子もないことを言い出した。
 「皮口君、タイムマシン作ってたらしいよ」
 「タイムマシン?」
 「うん、あと少しで完成するって言ってた」
 馬鹿な、と思ったが、少し頭のよわい泡田君は、本気でそれを信じている様子だった。
 「なんでタイムマシンを作ろうとしたんだろ?」
 「わかんない。でも、もうちょっと生きてたら、完成したかもしれないのに、おしかったね」
 おれは、逆なんじゃないか、と思った。皮口君はいじめから逃避するためにタイムマシンを拵えて、不幸のない時代へ飛ぼうとしていたのだろう。しかし、タイムマシン製作は行き詰まり、八方塞がりとなった彼は絶望して死んだのだ。おれは天を仰ぎ、皮口君の無念を思いやった。

 小学生にとって、タイムマシン製作は困難きわまる作業だったはずだ。しかし、それでは大学生のおれにとってはどうだろうか?おれはタイムマシン完成にいたる工程を考えたが、どうしたことであろう、始めのワンステップすら思い浮かばなかい。これでは皮口君に遠く及ばない。だいいち、タイムマシンどころか大八車すら自分で拵えたことがないのだ。乗り物といえば小学生のころにミニ四駆のシューティングスター号の組み立てを完遂したのが人生最高の記録である。
 この一事を見ても、おれのピークはせいぜい小学生時代で、以後進歩していないということがよくわかる。面接にも落ちるはずだ。早く手を打たなければならない。それも根本的な対策を。そう、過去の時代に行けば、進歩なんて概念は価値を失い、ポジティブ党は迫害され、おれたちネガティブ党は今の比ではない繁栄を遂げられるのだ。
 ネガティブ党が民衆に賞賛されるさまや、面接に次々と合格する自分を想像すると、もはや矢も盾もとまらなくなり、おれは大学通りをぐんぐん北上して、国立駅から中央線に飛び乗った。行き先は、三陸海岸にあるオダサダオ博士の研究所だ。彼がタイムマシンを製作するほどの技術力を持っているか、確信はもてなかったが、男児たるもの、ときにはこういうった乾坤一擲の賭けが必要なときもある。

 そもそも、おれはどうしてネガティブ党に入党することになったのか?
 そのルーツを辿るとこれまた小学生の時分、3年生の1学期の終業式にたどり着く。
 おれはそのとき、「5」の数字が無数に踊る、きらびやかな成績表をもらって有頂天になっていた。そして、終業式などという形ばかりのイベントをさっさとやり過ごして、一刻もはやく夏休みになればいい、と思っていた。
 児童らの希望に満ち溢れた視線が自分のはるか奥へと向けられているという事実を知ってか知らずか、校長先生は負けず劣らずのきらきらした瞳で語り始めた。
 「みなさん、1学期の終了、おめでとう。明日からは楽しい夏休みですね。その前に、おうちのお母さんお父さんに通知表を見せることを忘れたらいけませんよ。通知表でね、5をもらった人は誇らしいでしょう。喜んで報告してくださいね。でも1がついてしまった人も、がっかりする必要はありません。むしろもっと喜んでください」
 その言葉は、小学3年生のおれには理解できなかった。どうして1をもらって喜ぶことができるのか?
 「どうしてかというとね、1をもらってしまえば、もうこれ以上下がることはない、あとは上がる一方だからです。次の学期では2、その次の学期では3。そうなったら、うんと嬉しいじゃありませんか、ねえ?」
 おれはひどくうろたえた。おれよりも、1ばかりをもらった(に違いない)泡田君のほうが得をしたというのか?
 今思えば、校長先生の言葉は限りなくポジティブな思想に満ち溢れていた。どんなにひどい状況でも、前に目を向けて進めというメッセージなのだから。ところがおれにとっては、5をもらってなお、1の者より得られた喜びが少ないという残酷なメッセージに聞こえてしまったのだ。
 以来おれは、よい成績をとって担任の先生や親にほめられても、いやこんなことに価値はありません、泡田君が2をもらうほうがよほど価値がありますよ、などとクールな態度を見せ、周囲の大人は、少しばかり自分が賢いからと思い上がった、ひねくれたいやな子ね、と眉をひそめておれを見るようになった。

 大宮駅から新幹線はやて号に乗り換えた。ひどく交通費がかかる。バイトもクビになったのに、この出費はかなりの痛手だ。俺は財布の中身を覗いてため息をついたが、じきに気付いた。どのみちおれは過去に旅立つわけで、過去の世界に現代の金をいくら持ちこんでも無用の長物。つまり財産の減少にこだわる必要はないのだ。
 とすると逆に、いまのうちに全財産を投げ打って豪遊でもすべきなのか?といっても豪遊とはどうすればいいのだろう。六本木やなんかのバーで思う存分飲み食いするとかか?わからない。渡部に聞いてみたらもう少しアイデアが浮かぶかもしれないが、いやいや渡部はダメだ、あいつとは縁を切らないといけない。でもどのみち過去に戻れば渡部はいないわけで、それなら今さらそれくらいのことにこだわる必要もないといえばない。
 とりとめもなくそんなことを考えているうち、おれはもっと重大な事実を発見して愕然とした。おれは家族、友人などがいる今の世界を捨てようとしているのだ。まあ友人は渡部を除けばごく少ないし、両親はさすがに悲しむかもしれないが、それでもだいじょうぶ、家が大好きな引きこもり系ニートの兄がまだいる。
 しかし幸子はどうなる? おれは故郷に残してきた彼女を想う。おれの彼女への愛は本当に深く、生涯大切に守り抜くと力強く誓ったほどだ。その幸子を捨てるのか?無理だ。けれども、それでも幸子を連れて行くわけにはいかない。彼女はネガティブ党の党員ではないのだ。私情に動かされ党の掟を破ることは、決して許されない。
 一瞬、過去への旅は断念すべきかとすら考えた。だが、ネガティブ党繁栄のためには、おれの計画は断じて実行すべきである。おれは幸子を愛する一人の男であるのと同時に、ネガティブ党に限りない忠誠を尽くす一党員でもあるのだ。公と私の狭間で、心は千々に乱れた。

 懊悩するうちに、いつしか眠りに落ちていたらしく、夢を見た。
 おれは自宅のソファに腰をかけ、幸子がおれにもたれかかっている。
 優しく幸子の頭をなでる。彼女の体は白くて、華奢で、でもやわらかい。
 ほどよく暖房が効いていて、ソファの前のテーブルにはカプチーノが置かれていて、お気に入りのチャイコフスキーの組曲が控えめに流れている。
 おれはこの時間がちょっとでも長く続けばいいな、と思う・・。

 穏やかな気持ちで目を覚ましたおれは、やはりこのままオダ博士に会いに行こう、と決意した。
 幸子の夢を見たことで、かえって、おれが愛しているほどには幸子はおれを愛していない、と自らを納得させることができたからだ。だいじょうぶ、自分がいなくても彼女は幸せに必ずや暮らしていける。それならばおれは、ネガティブ党のために全力を尽くそう。
 それからまた悠久の退屈を経て、三陸鉄道南リアス線の某駅に降り立ったときには、時刻は21時半を回っていた。周辺は真っ暗闇で、数匹のスカイフィッシュが海のほうへ飛んでいくのが見えたくらいだ。田舎町のこと、もはやバスも出ておらず、おれはそこからさらに、ネガティブ党先細り科学技術研究所に向けて歩かねばならなかった。
 初夏といえども夜の三陸海岸はめっぽう寒く、心身ともに疲弊していたおれは危うくめげそうになった。しかし、ここで引き返しては元も子もない。それこそ交通費と時間の丸損である。今がふんばりどきだ、ネガティブ党党員をなめるなっ!おれは周囲に人がいないことを幸い、怒鳴り声を上げて自らを叱咤しながらずんずん歩いた。

 それにしても、先細り科学技術研究所という名前はなんとも情けない。おれは入党したてのころ、自分の存在をアピールしなければと焦っていたこともあり、つい博士に愚かしい提案をしてしまったものだ。
 「先細り科学技術というのは、いかにも無意味な研究をしているようで、気が滅入ります。まあ実際そうなんでしょうけれども、せめて名前だけでも、先端科学技術研究所とかに改名したらどうでしょう?先細りというのはある意味では先端ということでもあるわけで、嘘にはなりません」
 博士は、ふんっ、と鼻で嗤った。その、ふん、という音が発せられると同時に、はっきり目に見えるほどの鼻水が飛び出たが、おれはすんでのところで回避した。
 「何を血迷っているのだ、愚か者め。そんなポジティブな名前をつけて、どうするつもりだ」

 研究所に到達したときには23時近くになっていたが、研究所にはまだ明かりがついていた。真っ暗な海岸の近くにそびえたつおんぼろな建物から薄暗いオレンジの光がこぼれる様子の陰気さといったら、わが党の面目躍如たるものがある。
 IDカードで扉を開けてずかずか中に入ると、奥から若い男が慌てた様子で飛び出てきた。
 「なんだ、だれだあんたは。こんな時間に」
 「不審な者ではない。おれは党員だ、フランスパンだ」
 ネガティブ党のメンバーは、本名とは別にコードネームを持ち、党内ではその呼称が使われる。オダサダオ博士はたぶん特例だろうと思うが、確認したことはない。もしかしたら、本名は尾塚カツオとか徳川ガクトとかで、オダサダオがコードネームなのかもしれない。
 おれはIDカードを男に見せて、自分が確かに党員であることを示した。
 「フランスパン、か。僕はKKKだ。博士に用か?」
 「ああ。ちょっと取り次いでくれないか?大事な用件だから直接話したい」
 「わかった、待っててくれ」
 KKKは奥にひっこみ、かと思うとすぐに戻ってきた。「実験の調子が悪いから今日は会いたくないそうだ。明日出直してほしい」
 ちっ、と思ったものの、そのくらいは予想できたことだ。というか常識的に言えば、おれのほうがよほど強引である。
 とはいえこんな時間に放り出されても往生するというか、この寒さではいくらなんでも野宿はできない。なんとかせねば。
 「KKK君、きみは研究所で夜を明かすのか?」
 「いいや、もうじき帰るよ。博士とこのまま朝まで過ごすのは気まずいし」
 「それは幸い。きみの家に泊めてくれたまえ。せっかくの機会だし、党員どうし親睦を深めよう。一期一会とはこのことだ」

 KKK君の趣味の悪い旧型のバイクに乗ってほどなく、彼の住むアパートと思しき場所に到達し、おれはようやくほっと一息つくことができた。
 「部屋汚いけど、がまんしてくれよな」
 KKK君は部屋の明かりをつけた。部屋は本当に汚かったが、まあいいだろう。と、何の気なしに改めてKKK君の顔をみると、おや?さっきまではずっと周囲が薄暗くて気づかなかったが、どうもその顔に見覚えがある。
 「おい、KKK君?」
 急にシリアスな声を出したせいか、彼はびくっとしておれの方に向き直った。
 「どうかした?」
 「お前、あれか?もしかして、M小に通ってた泡田君じゃないか?」
 KKK君は一瞬ぽかんとしてから「え?なんで知ってんの?!」とうろたえた。
 「泡田、おれだ。あのころ隣に住んでて、M小にいっしょに通ってた、」「ああ!思い出した!」
 おれたちはひとしきり偶然の再会に驚き、これを祝してこれから飲もう、と大いに盛り上がった。泡田くんが奥に引っ込んでから、しまった今朝二日酔いになったばかりだった、と後悔したが、後悔とは役に立たないものだ。

 出てきた酒がよりによってウォッカだったので、おれはさらにげんなりしたが、気をとりなおして泡田君に尋ねた。
 「泡田、お前どうして入党したんだ?」
 「どうしてって、高校出てから下水処理場の作業員として働いてたんだけど、きついし、くさいし、汚いし、ちっとも面白くなかったんだ」
 「うんまあ、そらそうだろう。3Kってやつだな」
 「ああ、そう。それで博士が僕に、KKKってコードネームを勧めたんだけどね」
 「そうか、クー・クラックス・クランかと思ったが、違ったのか」
 「クー、クラ?」
 「いや気にするな」
 「とにかく、女もできないし、僕は頭が悪いから将来はないし、ちっとも人生楽しくなかった。そんなグチを魚民でこぼしてたら、ここの党員がそれを聞きつけて、勧誘してきたんだ。まさに人生の転機だったね。それからは、毎日とても心が穏やかなんだ、ここがいちばん落ち着くんだよ」
 泡田くんらしく、実に軽率な経緯である。
 「なるほど、確かにここは安心できる場所だ」
 「でも、きみこそなんでなんだ? 僕と違って頭もいいのに」
 少年時代のおれは、泡田君の代わりに宿題を解いてやり、その報奨としてプレステのソフトやなんかを借りていたものだ。泡田君は当時、勉強ができるおれのことを尊敬していたはずだし、おれも彼に対する優越感を隠そうともしなかった。
 そのおれが、自分で言いたくはないが、ネガティブ党などという落ちぶれた組織に属していることは、彼にとっては少し複雑な心境なのかもしれない。
 おれはウォッカの入ったグラスを口に運んだが、体がすぐに拒否反応を示し、うっと顔をしかめた。
 「あっ、悪いことを聞いた?」泡田君は勘違いをして慌てた。
 「いや、ちがうちがう。そうだな、小3のときの校長、小野先生だっけ、あの人が1学期の終業式で話したこと覚えてるか?成績表で1をとった人は5をとった人より喜びなさい、なぜならあとは上昇するいっぽうだから、って」
 当時の泡田君といえば、いつも口をぽかんと開けてあらぬ方を見て屁などこいていたどうしようもない餓鬼であったので、先生の話など覚えているどころから聞いてもいなかったろう。と思いながらも便宜上疑問形を用いたおれの発言に、
 「うん、おぼえてる。僕のことを言われたと思ったから」と、予想外の答えが返ってきた。
 「あ、そうなの?!んでどうだった?そのあと成績上がった?」
 「僕、2年生まで成績半分くらいは2だったのに、もっと下がってもう1ばっかりになってたから、やばいと思ってちょっと焦っててさ。そしたら先生がああいうから、ラッキーと思って、夏休みは安心して遊べたなー。でも、それからいくらたっても、上がらなかったね」
 「そうか、そりゃあ当たり前だよな」
 「だね」泡田君は気楽にあははと笑った。
 「おれのほうは、なんだ5もらったのに損したじゃねえか、と思って、損した気分になった。それからだな、価値観がネガティブなほうに寄り始めたのは」
 おれは遠い目を窓の外に向けながら、渋めの声を出してみたが、言っていることはまるで格好良くない。
 「泡田ももしかしたら、安心しないで勉強したら、成績上がってたかもな。そしたらもっといい仕事につけたりして、ネガティブ党入らなかったかもな」
 「あっ、そうか。あいつのせいだったのか!」
 「でも、今は満足しているんだろ?だったらいいじゃないか。しかも、あの言葉がなかったらおれだって今ここにはいなかったわけで、今日2人が同じ党でこうして再会できたのは、先生のおかげともいえる」
 「なるほど、じゃあ、やっぱりいいこと言ったんだね」
 昔と変わらず人の話にすぐに流されてしまう泡田君は満足げにうなずいた。おれは、今の発言なんだかポジティブじゃねえか、と気づいて少し反省した。

 そのままとりとめもなく泡田君と話をした。皮口君とタイムマシンの話だけは、党の未来に関わる重大な話なので、旧友との劇的な再会といえども慎重にこれを避けておいたが、和田さんという女の子が鼻にピーナツを詰めてとれなくなった話や、菅原君という男の子が走り幅跳びをした拍子に大便を漏らした話などを思い出しては語り、おれたちは腹を抱えて存分に笑った。
 10年ぶりというぎごちなさもすっかり消え、また体もウォッカを少しずつ受け入れはじめ、おれは非常にリラックスした気分になっていた。
 ネガティブ党の中で活動したり、党員と交わっていると、妙な安心感を味わうというか、成績だとか就職だとかプライドだとか、そんなものはどうでもよいような気持ちになってくる。酒盛りも収束して、いい気持ちで布団に入ったころには、なんかもうタイムマシンとか別にいいんじゃないか、おれも泡田君みたいに党の研究所とか工場とかで安穏と日々を送ってやろうか、などという惰性的な感情に支配されかけていた。

 夜が明けた。布団から体を起こして泡田君を探すとすでにその姿はない。代わって枕元に「出きんの時間なので先に行く。部屋のかぎかけといてください。冷ぞう庫のヨーグルトはたべてもいいよ」と、小学生のときから成長していない汚い字で書かれたメモと鍵が置かれていた。10時を少し回っている。
 おれはメモに従い、冷蔵庫からマンゴーヨーグルトと、それからトマトが丸ごと一つあったので、誤差の範疇だろ、と嘯いてこれを取り出した。変な食い合わせだ。渡部でも同じチョイスをするだろうか、と無意識に考えてしまって、おれは情けない気持ちになった。やっぱり、博士に会いに行かなければ。おれは渡部を、ポジティブ党を越えてみせる。

 泡田君が話を通してくれていたらしく、今日はすんなりオダ博士と面会することができた。
 オダ博士は相変わらずの無残なバーコード頭で、おれの目を決して見ようとせず、ぼそぼそと聞き取りづらい声で「ひさしぶりだな、何しに来たんだ」と歓迎の意を表した。左手には豆乳バナナのパックを持っており、パックから伸びたストローが汚く何箇所もかみ潰されている。博士には昔からそういう癖があった。
 泡田君と、顔なじみの数名の助手が周りを取り囲み、興味深そうにおれたちを眺めている。
 おれは単刀直入に切り出すことにした。
 「博士、タイムマシンを作ってください」
 さすがの博士も少しは驚くかと思ったが、博士はまるで表情を変えずに、答えた。
 「タイムマシンか。別に構わないが、作ってどうする」
 「過去へ行くんです。過去世界ではネガティブな価値観が世を支配していたと大学で習いました。ということは、我々は過去に行けばより繁栄できるのです。党を大躍進させるチャンスですよ!」
 おれは興奮してまくしたてた。
 ところが、博士は阿呆のように口をぽかんとあけて突っ立っている。
 「それがどうしたのだ」
 「どうしたって、博士。今のこの状況をどう思ってるんですか?ポジティブ党のやつらはともかく、一般人までみな口を揃えてポジティブだの前向きだのWin-Winだのと言いやがる。我々は迫害されてるんですよ」
 「それでいいんじゃないのか」
 博士はますます興味を失ったように、豆乳バナナのパックに視線を落とした。
 おれは苛々した。
 「そらまあ、今の生活でもそう不自由はないでしょう。っていうか博士はここで毎日好きな研究して十分な楽しいかもしれません。でもね、何のためにそうやって日々研究して技術を積み重ねてるんですか?それなりに費用も投入して。今こそ総力を挙げて党のために奮起すべきですよ。このままじゃ本当に先細りだ」
 「だから先細り研究所なんだ。何かおかしいのか」
 きた。博士はいつもこれだ。冷ややかにシニカルに、だから何だよ?と跳ね返して、自分の領域に決して相手を踏み込ませないようにする。先日まで教えていた中3反抗期女子・小島さんと同じレベルだ。もちろんそれなりの権力を持った大人だけに、断然タチが悪い。
 助手たちの表情が、もうやめなよー無駄だから、とでも言いたげに変わっていくのが見えたが、今日ばかりはこのまま引き下がるわけにはいかない。
 「博士さぁ、そんなこと言ってるけどほんとはただ単にタイムマシン作れねぇだけだろ?それなのに、作れるけど別にいらなくね?みたいなスタンス装って体裁保とうとしてんじゃねーの?難しい注文なのはこっちもわかってんだから、悪いけどウチの技術では今はそれはできない、ってちゃんと言えば済むじゃねえか。なんでいい大人なのにそれができないんだよ?だいたいそんな豆乳バナナとか飲んで今さらイソフラボン摂取しても意味ないっつーの」
 泡田君がおろおろして、あわわ、とつぶやいている。しまった、豆乳バナナは関係なかったか、と思ったが、もはや自制がきかない。おれの悪い癖がまた出てしまった。
 「そんなふうにちっぽけなプライドふりかざしてばかりいねえで、たまには素直になれよ。今すぐにはできなくても今後ゆっくり検討してみようとか・・」
 「黙れ!この大馬鹿者!まだわからんのか!」
 博士は突如激昂し、バーコードの毛が総立ちになった。おれは博士のテンションがこんなに上がったのを初めて見た。
 「残念だがお前にはネガティブ党員たる資格がないことが判明した。よって今日この場をもってお前に脱党を命じる」
 おれは愕然とした。「なぜ?なぜですか?そりゃあおれは今ちょっと言いすぎました。それは謝ります、ですが、ネガティブ党の繁栄を望んでいるからこそ、わざわざここまで博士に会いに来たんですよ?」
 「それだ。それが理由なのだ」
 おれは意味がわからず、博士の貧相な顔を思わずじっと見つめた。
 博士は大きなため息をついた。
 「君、我々は人間の屑だ。そうだろう?人間の屑だからこんなネガティブ党などというどうしようもない組織に所属しているんだよ。だからポジティブ党が繁栄し我々が迫害されるのは当然のことじゃないか」
 はっと気がついた。その通りであった。ネガティブ党員であるおれは、自身に対してネガティブでなければならない。ネガティブ党に対してもしかりだ。なのにおれは、自身のネガティブ性を正当化しようとし、ネガティブ党はもっと認められるべきだ、などと党の方針に対立する思想を抱いてしまったのである。
 「どうやら気がついたようだな。我々は我々の繁栄を望むべきでない。むしろポジティブ党の繁栄を願わなければならないということだ」
 世の中の人がみなポジティブを支持することにおれは不満を抱いていた。しかしそれは完全な過ちであった。ポジティブパーソンは自分がポジティブであることにポジティブなのでポジティブを善とし、ネガティブパーソンは自分がネガティブであることにネガティブなのでやはりポジティブを善とする。ポジティブパーソンの成功を目の当たりにしながら、おれはどうせネガティブだから、と部屋の隅で三角座りをするのがネガティブパーソンの正しい姿勢なのだ。ネガティブ党が支持されるべき、などと考えたおれは、自分がネガティブ党の風下にもおけないどうしようもない半端者だったことを悟った。
 「博士、おれ・・・・すみません・・・・」
 しかし博士は優しくおれの肩に手を置いた。
 「いいんだ。それでいいんだよ」
 それはおれが初めて聞いた、オダ博士のポジティブな言葉だった。
 「フランスパン、行け。お前はポジティブへの道を今踏み出し始めた。もう我々のところに戻ってくるんじゃないぞ」
 「はい!!」
 おれは博士と堅い握手を交わした。博士の手は、これまで見た人間のどんな手よりも弱々しく薄汚かった。

 電車の窓から見える太平洋が、力強い初夏の陽射しを浴びてきらきらと輝いていた。目を凝らしてみても、スカイフィッシュは一匹たりとも飛んでいない。
 タイムマシンで過去に行くという目的は果たせなかった。やはり時間と交通費の完全な無駄であった。以前のおれならそう考えたであろう。しかし今は違う。失ったものより、もっと大きな何かを得たという感覚があった。
 おれをとりまくもろもろの状況は、確かにすこぶる悪い。就職活動は全敗中だし、バイトも親友も失った。だが、パンドラの箱の奥底にさえ、希望は残されていたのだ。
 そして、今のおれにとっての希望は、言うまでもなく、幸子だ。
 おれは国立にはもどらず、故郷の松戸へ向かうことにした。

 自宅に戻ると、幸子が玄関の前にじっとたたずんでいた。おれに気付いて、嬉しそうに駆け寄ってくる。そんな彼女が狂おしいほどに愛しくて、おれは彼女をしっかりと抱き止めた。
「幸子!すまなかった。本当にすまなかった。もうおれは現実から逃げようとはしないよ。ずっとお前のそばに居て、お前を守るからね」
 幸子は、ミャア、と一声鳴いて、気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らした。(了)

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