見出し画像

普通のことができない私は間違っている ~女装・男の娘マンガの魅力~

小2の頃、母親と自由帳を買いに行ったことがある。雨の日だった。地元の文具屋に入って、品物を物色する。今もそうだと思うが、自由帳という商品のラインナップは幅広く、様々なキャラクターや風合いのものから自分の好きなものを選ぶことができた。

平成という時代。今となっては平成レトロとでも呼ぶのだろうか、そこには女の子向けのコテコテなキャラクターコンテンツがあった。私はその中で一冊の自由帳に心惹かれたが、男子が明らかに女子向けな絵柄の自由帳を持つのは、「普通」じゃない。そう思い、無難なものを買って車に戻ったけれど、商品棚のあの絵柄がどうしても頭にちらついてしまい、親に頼み込んでもう一度買いに行ってもらった。

翌朝、教室でランドセルから出した途端に笑われたのですぐにしまった。二度と持って行かなかった。


そんなことがあったからなのか、私は、誰かの言った「普通」だとか「当然」「必至」といった言葉をつい気にしてしまう。

普通とは何か。ひとつには、周囲のなかで多数派であるということだ。女子っぽい柄の自由帳を買う男子は、多数派ではない。けれども、多数派でないという単なる事実がなぜ私にとってこんなに問題となるのか。

それは、多数派であることが正しさと結びついているからだ。

正しさとはそれ自体では誰の目にも明らかなものではない。だから、正義をめぐって人々は紛糾する。ところが、人間の数という物理的な力は一目瞭然である。ゆえに人々は、多数派であることを正しいこととする。

みんなと一緒であること。多数派であることが正しくて望まれている状態であることが社会的に明らかである事柄について、自分が少数派であることを自覚したとき、人は負い目のような、自省的感覚を持つに至るのである。


私には、女装という、「普通」ではない嗜好がある。

女装というのは、原理から言って普通のことではない。男が着ることが普通とされた服というものがあるにも関わらず、わざわざ女が着ることが普通とされる服を着たがる男というのは、普通ではない。みんながそうしようとは思わないことを、敢えてしようとしている。多くの人と外れた行動をしている者は、普通ではない。 

そして、女装に惹かれる自分は普通ではないのだ、と感じると同時に、私は、自分が間違っているという意識もあった。性別に合わせた服装をするというのは、ある種の規範である。「そうすべきこと」「そうすべきでないこと」がある。例えば、映画館で静かにしていなければならないとする法律は無いが、実際、映画館では静かにしていなければならない。確かに、映画館には「お静かに」なんて張り紙があるかもしれないから、その為かもしれない。しかし女装は、そんな張り紙どこにも無いというのに、男が女の格好をしているなんておかしいという共有意識が厳然と存在している。それを破ろうとしている私が、どうして間違っていないと言えるだろうか。

 普通であることと正しいことは、密接に結びついている。「普通はこうするでしょ」という言葉には、社会で通用する何らかの「正しさ」が備わっている。一方で、普通の人はやらない女装という行為には、いくらかの正しさも存在せず、むしろ間違いとして正されるような性質がある。

女装というものを好む私。私の女装に対する自意識の出発点は、「私は間違っている」という感覚だった。


私は女装する人物が登場するマンガを愛好している。それは少年が少年マンガを読むような欲求なのかもしれないが、ともかく、私は女装や男の娘といったジャンルのマンガをむさぼるように読んでいる。そして、女装・男の娘マンガを読む視点のひとつとして、「私は間違ったことをしているという意識」というものがあるように思う。ここが、私がこれらのマンガの登場人物たちに共感を寄せるポイントのひとつになっている。

男の娘の「私は間違っている」という意識をよく表しているのが、十三木考の『トラップヒロイン』だ。

十三木考『トラップヒロイン 1』

高校入学の朝、千路田耐志(チロダ)は学校への道すがらに前を横切った美少女の落とし物を拾い、同じ学び舎の制服を着たその彼女と交流する。ところがホームルームで再会した彼女、小日向真は、男の娘だった。過去のちょっとした災難から男の娘に苦手意識のあったチロダは、構ってくる小日向を冷たくあしらうが、怒った小日向の口から、なんと生活の拠点となるオンボロ学生寮で2人が同室であることが告げられる――。

男の娘という存在を自分から遠ざけたいチロダと、男の娘という自己を保ちながら同室者と上手くやっていきたい小日向。2人の言い争いは当然の成り行きだった。困っているチロダに、寮母が声をかける。

「真くん、入居ぎりぎりまで気にしてましたから。同室の人に迷惑かけるかもって。」

十三木考『トラップヒロイン 1』

こうして2人は落ち着きを取り戻し、これから共に高校生活を送る間柄として、お互いの歩み寄りが始まる。男の娘嫌いと男の娘が出会い、対立し、和解するまでの流れが、冒頭3話分という尺の中に凝縮して表現されている。

「チロダ君はさ…そんなに悪い人じゃないと思った。
だから、仲良くしたいと思ったの。
こーいうカッコウ苦手だって言ってたでしょ?
ボクも分かるんだよその気持ち。
だけど……それでも、
たぶん最後になるから…
迷惑かけると思うけど仲良くしてほしい…」

十三木考『トラップヒロイン 1』

偶然同じマンガの連載を読んでいたチロダと小日向。しかもそのストーリー展開では、先月号でヒロインが男子であることが発覚したというものだった。これに対して小日向は言う。

「意外だな。小日向もあの展開に不満なのか?」
「だってさ……貴重な黒髪ロング枠だったんだよ!? 正ヒロイン候補だったのに!」
「……でも、まだ展開次第で…」
「そうかな……」

「男はヒロインになれないよ。」

十三木考『トラップヒロイン 1』

小日向の言葉を受けて、チロダは独りごちる。

「まあ、そうだよな。男がヒロインなんて、ありえない。」
おそらく小日向は普通●●を分かっている。
だからこそ校則の緩い高校を探し、
わざわざ安いボロ寮に入り、
他人に気を遣う……

十三木考『トラップヒロイン 1』

「小日向は普通を分かっている」。チロダの失言に声を荒げたとき、小日向はその指摘を実はよく分かっていた。「男のくせにそんな格好おかしい」と言われたときも、「世間知らずだからこういう格好ができるのか」と言われたときも。心の奥底の闇の中に「私が間違っている」という意識が潜んでいるからこそ、その言い分が分かるからこそ小日向は、チロダの無自覚で無遠慮な挑発に乗っかってしまうのだ。


では、「私は間違っている」と認めるとして、私の意識はそこで立ち止まってしまうのだろうか? ひたすら自罰の刃を己が心に当て続け、自己批判を繰り返し、その意識を滅することにしか道は残されていないのであろうか?

答えは否である。

なぜなら、それでも私は私として生きていたいからだ。

自分の意識の罪深さに耐え切れず、女装したいというこの心ごと消し去りたいという希死念慮に近い感情。けれども、私は生きたい。私は生き続けたい。私はこの心を折らぬままに生き続けたいのだ。心を抑え込んで生きるということは、既に大切なものを殺していることになるのだから。

であれば、そのような自己に必要なものは赦しである。

間違っている私を、そのまま私の中に受け入れること。自分を責め続けることをやめる。もういいじゃないか。私はこんな風にしか生きられなくて、でも、私はこういう風に生きていたいのだから。どんなに世間が私の間違いを咎めたとしても、間違った自分を抱えたまま生きていくしか無い。ならばせめて、自分の心を置いておける居場所のひとつくらいあるべきだ。

自己否定の徹底の末に、かえってその反対側の結論を導く。どんなプロセスを辿ってもいい。親しくしてくれる友の存在、愛を教えてくれる恋人の存在が助けになってもいい。けれど最終的には、「間違っているけど生き続けたい私はこんな風にしか生きることができない」ということを、自分の心の底において認めてやってほしい。自分にこそ自分を赦してやってほしい。

ふみふみこ『ぼくらのへんたい 7』

「強いのね あなたって」
「…強いわけじゃないです
ただ もう いつまでも泣いてばかりじゃいられないから
それにこうすることでしか 生きていけそうになかったから」

ふみふみこ『ぼくらのへんたい 7』

腹をくくり、肝を据え、覚悟を決め、この逆説的な諦めの境地に達することで、男の娘は、女装男子は、自己を受け入れることができるようになる。

私は、心の闇を徹底して覗き込んだ末に差し込んだ光の世界、そこに達した女装男子や男の娘たちが、何よりも愛おしい。

自己のなかに暗さや闇をもたない人間を、私は尊敬しない。彼らは生の真相をみる勇気と誠実さに欠けている。私は、自己のなかに強い生命の歓喜の歌を歌うことができない人間を愛しはしない。彼らには、強い生の衝動が欠けている。

梅原猛『地獄の思想』

マンガに登場する女装男子や男の娘が、どのような方法で自分自身を受け入れていくのか、それはそれぞれの人物ごとに異なっている。その自己受容の形は実に多様なものである。

それぞれの男の娘や女装男子の在り方、生き方を堪能することが、女装マンガや男の娘マンガの大きな醍醐味のひとつだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?