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26-9

 警察官として真っ先にやらねばならないこと。それは一般市民の避難だ。立花は走った。下の階から笠間の大声が聞こえてくる。

「警察です! 今すぐここから退避してください!」

 もつれる手で携帯無線機を取り出し、走りながら本部に連絡。笠間とすれ違いざまに、自分は下に行くと指し示す。頷きが返ってきて、立花は走る速度を早めた。
 被害を出すわけにはいかない。速やかに避難させなければならない。あの七年前の、あの事件のときの、周辺住宅をひとつひとつ見て回った、あの記憶。西倉の憔悴しきった顔。網屋少年のどこも見ていない瞳。

 一階まで降り、まずは守衛室に顔を出す。当然ここにまで銃声は聞こえており、避難を要請すると全員がすぐに外に出てくれた。

「でもお巡りさん、まだ、中にお客さんが!」
「我々が避難誘導します。皆さんはご自身の避難を優先して!」

 そこへすかさず、駐車場入口の前に飛び込んでくるパトカーと白バイ。付近の警邏を行っていた中でも、最も近い位置にいた隊員達が駆け付けたのだ。

「避難と封鎖を!」

 無線で既に最低限の状況は伝えてある。慌ただしく動き始めた警察官達の中、白バイ隊員が自身の婚約者である和久野だと、ヘルメットを取らずとも立花は気付いた。が、何も言わずただ見つめ、長い一瞬があり、理解があった。
 立花は再び走り出した。一階から上に向かって一般客を探す腹づもりだ。背後から和久野の声が聞こえる。守衛達を誘導する声だ。
 考える暇はなかった。何故、ここにあの網屋少年がいたのか。その疑問はかつての記憶と混ざり合って、彼女の危機感をより煽るだけであった。


 殺せば良い。ただそれだけの簡単な事実に何故今まで気が付かなかったのか。坂田は歯噛みした。面倒事は嫌いだ。可能な限り避けたい。ならばそれごと潰せば良かったのだ。いい機会だ。塚越がなんだ。西倉がなんだ。知るか。
 音を立てずに一階へ向かう。こうすれば必ず彼等のうちの誰かが来る。そうでなくとも、部下達が追い込む。それをシンプルに殺す。ほら来た。
 壁の影に隠れて表の様子をうかがう。バタついている出口付近、その奥。走ってくる西倉の姿。静かに銃を構え、そして、坂田はその場を退いた。直感にも近い何か。
 直後、銃弾がコンクリート製の壁を抉った。
 違う、これは塚越ではない。奴のやり方ではない。坂田の頭の中で警告が鳴り響く。塚越はどうしても自分を生かしたまま捕らえたいはずだ、しかしこの銃弾は……視線を動かす。壁に穿たれた痕は、己の胸郭の位置であった。明確な殺意だ。
 坂田は走る。回避のためだ。建物端の階段を登りながら無線のスイッチを押し込み、部下達に警告を発しようとしてそれを見た。狭い階段の小さな踊り場に、部下の死体が転がっていた。

「対象がまた、ここにいる」

 部下達のどよめきが聞こえるような、そんな錯覚があった。

「網屋希は建物内にいる。我々を狙ってくるぞ。道畑がやられた」
『……』

 誰か、何か言葉を発しようとして途切れる。今度は錯覚や気配などではなく現実だ。舌打ちしそうになるが堪える。

「点呼!」
『湊です』
『松下』

 その後に続く声がない。先程の一瞬でやられたのは柴か。踊り場の死体にあまり近付かず、坂田はもと来た階段を降り始める。ここに誘導されている可能性を考えたからだ。遺体など、こうなってはただのデコイでしかない。自分ならそうする。自分なら……
 ああ、そうか、そうだ。
 右手に銃を握ったまま、左手でスマートフォンを取り出す。連絡先を探すより履歴を見た方が早かった。自分ならどうするか、状況を有利に進めるにはどの手を使うか。答えは簡単、戦力を増やす、だ。画面に表示された通話先の名は、楠木。ヨーロッパ担当の男。つい先程、顔を突き合わせたばかりの。

『もしもし』
「すまない、坂田だ。今どこにいる?」
『まだ熊谷市内だが、どうした。緊急事態か』
「ああ。救援を頼みたい。公安と熊谷警察、あと網屋希を同時に相手している」
『それは、また……場所はどこだ。すぐに向かう』
「座標を送る。頼む」

 通話を切り、すぐさま現在地の座標を送信した。あの男がこちらに来ていて助かった。楠木が到着してしまえばこちらのものだ。彼一人で戦力が全て賄える。少しは自分も楽ができるはずだ。

 坂田は気付かなかった。無意識のうちに、キャンディをひとつ、口に含んでいたことを。その代わり別のことを思い出した。キャンディ受け渡しの際に話題に出た、網屋希という存在。彼のことを楠木は何故か知っていた、という奇妙な事実。
 しかしそれについて考える暇はない。スマートフォンと共に、かすかな疑問を内ポケットの中に押し込んだ。


 妻沼の聖天山には何度か車で行ったことがある。故に、相田はそこに至るまでの裏道も把握していた。住宅街をすり抜け、ディーラーの横を突っ切り、視界の悪い角を僅かな視覚情報と音で判断して飛び出す。国道は回避。この時間帯はどうしても詰まる。誰もが通りがちな抜け道も避ける。すると、どうなるか。ひどく狭い裏道しか選択肢は残らない。しかも乗っている車は自分のものではなく、網屋の大きな四輪駆動車だ。
 だが。網屋は「なるべく早く」と言った。ならば、可能な限り「早く」。抜ける。抜ける。車体が掠めそうなほど狭いブロック塀の隙間を、無造作に置いてある自転車の横を、畑の脇の舗装などされていない畦道を、スーパーの駐車場を、寂れた商店街の裏を、そして、聖天山本殿を横目に、その少しだけ先。
 暗くなって誰もいない駐車場、一台だけ残った軽自動車。そいつの横に立ち、こちらをちらりと見て、車内にいるであろう家族に手を小さく降る塩野の姿を相田は見つけた。
 塩野がすぐに乗り込めるように、助手席側のドアを真横につける。「行ってきます」と家族に声をかけるのが聞こえ、飛び込むようにシートに座るのを確認して即発進。

「すみません、ご家族とお出かけ中に」
「いーのいーの、緊急事態だもの」

 シートベルトをつけながら、塩野が笑顔で答える。だがその笑顔もすぐに消えた。相田を心配させまいとする笑顔であったから。

「さて、網屋君はどんな感じだった? だいじょぶそうな素振りしてた? 顔合わせちゃったんでしょ、おまわりさんと」
「あ、え、はい、大丈夫そうな感じではありました。それどころじゃないっていうか」
「まあねー、状況が動揺を許しちゃくれないもんねぇ……無理してんだろな。僕としては網屋君が一番心配」

 塩野が真っ先に網屋の心配をしてくれたことが、相田は嬉しかった。
 網屋はどんなに頼もしく見えても、どこかで無理をしている。していない訳がない。それが嫌で、悲しくて、相田は首を突っ込んだのだ。差し伸べた手を払い除けられたってかまいやしない。そんな心構えで今まで過ごしてきたが故に、その差し伸べる手が自分以外にも居るのだと知ることは喜ばしいものであり、また、安堵を呼ぶものでもあった。

「熊谷警察の方はどうにでもなるからね、その分、網屋君のフォローをしていきたいよね。相田君も手伝ってね」
「はい……って、どうにでもなるんスか? 熊警」
「なる。ここに引っ越してきた時から、マメに地雷を仕込み続けてきたからね! キッヒヒヒ!」


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恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。