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26-13

 眼鏡の男性が何か二言三言、妙に通る声で発した途端に自分以外の人間が皆、倒れた。何が起こったのか理解が追いつかない塚越は、恐怖すら感じる暇もない。

「ありゃ、おにいさんは熊谷の人じゃないのかな? んー、んー……公安かしらん?」

 害意は感じられない、それだけは分かった。しかしどうして良いのか分からない。

「ごめんねえ、すぐに終わるから。悪いようにはしないよ。でもちょっとだけね、ちょーっとだけね、ほんとごめんねぇ、怪我してる人もいるから急ぐね」

 手を合わせて謝罪を口にしながら、何の遠慮もなく接近してくる男性。

「ええっと公安の人だからぁ、多分あれか。効くかな?」


 走る。ここに来る際にチェックしていたルートだ。男は迷いなく走り、角を曲がり、小さな教会の裏口へと回り込んだ。
 屋内の明かりは弱い。古い教会であるので仕方ないのだろう。施設の人間が気付かず外から施錠してしまう可能性もあったが、さほど問題ではない。
 本当に小さな教会だ。僅かなベンチと、短い通路。数歩進めばすぐに祭壇だ。三段だけの低い階段を登れば、小さな金色の十字架が弱い光を受けて輝く姿を間近に見ることができる。
 レンガ造りの古い建物は酷く寒い。だが、ここでしばらく様子を見るしかない。白い息が漏れた時、全く別の冷気がひとつ、コートの背中越し。

「誰だ、お前は」

 振り向くのと銃を構えるのは同時だった。だが、声の主も同じように銃を構えていた。若い男。黒い髪、黒い服、黒い銃口。自分は彼を知っているが、相手はこちらを知らない。
 互いの銃口は真正面から向き合ったまま、引き金に掛けた指はまだ動かない。

「坂田の仲間さ。ついさっきまでな」

 若い男は片手で構えていた銃を、両手でしっかりと構え直した。

「俺の今日の仕事はもう終わりだ。だから、これ以上は何もしない。見逃してくれないか」

 返答はない。

「……余計なことを喋る必要はない、か。基本に忠実なのはいいことだ。よく教えを守っているじゃないか、黒犬(Black Dog)」

 これでもまだ相手の銃口は揺らがない。ふう、と息を吐き出して、少しだけ笑う。これ程度では動くはずもない。彼が狼の系譜であるのなら。

「こちらが一方的に知ってるっていうのも不公平だな。ヒントをやるよ。ほら」

 銃身を掴んで銃把をよく見えるように突き出してやる。薄暗くて見にくいだろうが、寧ろ黒の違いが分かるかもしれない。刻んである黒は銃把と僅かに色が違う。それは彼もよく知っているはずだから。
 彼の眉根が僅かに寄って、そして、気付くまではあっという間だ。

「分かったか?」

 気付いたのがなんだか少し嬉しくなってしまって、声色に喜色が滲むのを抑えられない。

「……お前……楠木真言(くすのきまこと)……!」
「流石に話は聞いてたか。まあ、そうだろうな。その銃。本当は俺のなんだろう?」

 互いの手に同じ銃。シグザウエルP229。銃把に区分けのためのラインが刻まれている。その色は黒。違う点は口径とマガジンのサイズだ。彼の方は新しく、自分は古い。それ故に。

「俺に返せ、とは言わんよ、網屋希。使う気はないから安心しろ」

 遠くで救急車のサイレンが聞こえる。それほど離れていないはずなのに、やけに遠くに聞こえる。銃を構え直してその冷たさに驚いた。表には出さないが。

「嫌でもまた会うだろうさ。坂田までいなくなったんだ、こうなったらもう俺が日本に帰ってくるしかない」
「雇い主を変更しろよ。そうしたら面倒なことをしなくて済む」
「それも有りだな。でも、雇い主がくれるオヤツが好きなんでね。離れる気は今のところ、ないな」
「クソジャンキーめ」

 煽りなどではなく本音が漏れたのだと分かる。全く持って事実であるので否定はできない。

「あと、俺のことを知っている人間は、できればみんな消えてほしいんだ。恥ずかしいんだ、知られているのが」
「お前の何もかもを知っているとは限らないだろう」
「それはそう、でも念のため。だから……」

 どうしてこんなに楽しい気分になるのか。自分でも分からない。分からない。笑みを抑えることができない。

「次に会う時は、お前を殺す時だ」

 網屋がトリガーを引くより早く、楠木は姿を消していた。機を失った銃口を下げ、忌々しげに息を吐き出す。追っても無駄だということはよく分かっていた。
 外からは人の話し声やざわめきが聞こえてくる。塩野が仕事を終わらせたのだろう。相田のことも心配だ。ここはひとまず戻るべきだろう。と言うか、それ以外にどうしようもない。

 己を睥睨していた男の顔を思い出す。佐嶋達に「似ている」と言われた男だ。それほど似ているか? 日本人だから雑にくくったのでは?
 いや、そう思いたいだけか。網屋は僅かに顔を歪めた。
 似ている。家族の仇を取ろうとしていたあの頃の自分にとても良く似ている。誰かを見ているようで結局は誰も見ていない、己の世界の中に閉じこもったような目つき。それが、似ているのだ。

「俺は」

 鈍く光る金色の十字架に、網屋は吐き捨てるように言った。

「お前に、殺されてなんぞ、やるものか」

 ただ揺れる光だけが、涙のように頬を伝う。


26 当事者と祈り 終


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恵みの雨に喜んだカエルは、三日三晩踊り続けたという。 頂いたサポートは主に創作活動の糧となります。ありがとうありがとう。