おやすみなさい、良い夢を

電源が点けられたままのパソコン、キーボードの上に無造作に置かれたヘッドフォン、マウスにはヘッドフォンのコードが絡まっている。周りの小さな棚にも未開封のお菓子の袋やらモバイルバッテリーやら何やらが秩序なく並べられていた。足元に倒れる鞄は蓋が開いており、中身が飛び出している。
「無用心すぎやしませんかね」
溜め息混じりの呟きに返事はない。鞄を元に戻して体ごと振り返る。パソコン周りと同じように散らかり放題な室内は見なかったことにし、ソファーで寝こける人物に目をむけた。体を丸めて眉間に皺を寄せて寝息をたてている彼は寒そうだ。
何故か開け放たれていた窓を閉め、ソファーの背にかかっていた膝掛けをかぶせておく。体を覆いきれてはいないがないよりはましだろう。
部屋を片付けようかと思ったが、ふと思い立って彼の顔の前に座った。指を伸ばして眉間に寄った皺を押してほぐそうと試みる。薄く開かれた唇から意味のなさない呻きが聞こえ、目蓋が開いた。
「起こしちゃった?」
問いかけには答えず、焦点の合わない瞳でこちらを数秒見つめた後、掠れた声で私の名前を呼んだ。
「根詰めすぎ。まだ締切まで時間あるんだからゆっくりやりなよ。ペース配分大事」
私の説教めいた呟きを相槌も打たずに聞いている。聞いてるのとは言わない。どうせ聞いていないし覚えてないのだ。そう解っているのに小言を言うのは純粋に心配だからなんだが、彼は知らないだろう。
「程々にね」
適当に切り上げて立ち上がる。先程から視界の端を掠める部屋の汚さが気になって仕方なかった。
何処から手をつけようか。踵を返そうとしたが叶わなかった。掴まれた手首から伝わる体温は寝起きのせいか普段よりも高い。私を見上げる瞳がゆらゆら揺れている。
「片付けしたいんだけど」
「一時間……無理なら三十分でいいから此処にいて」
寂しい、と消え入りそうな声で呟かれて立ち去れるほど私は冷たい人間ではない。片付けは諦めて座り直す。彼は頬を緩めて再び目蓋を下ろした。程なくして聞こえてきた寝息に長く息を吐き出した。手を離してくれなかったおかげで暇潰しが何も出来ない。
どうしたものかと悩んだのは僅かだった。空いた手で彼の体をトントンと叩く。まるで子どもを寝かしつけているみたいだ。ついでに子守唄でも歌おうかと思ったが、後で恥ずかしくなるのは自分だと思い直してやめた。
「おやすみなさい。良い夢を」
頑張りすぎな彼が少しでも休めるように、出来るだけ穏やかな声で囁いた。ことばは届いていないだろが、今度は眉間に皺は寄っていなかった。

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