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反発と反射・強めの表現の先にあるもの

言語の選択と表現方法、文脈、読解についても少々癖の強い私です。こんにちは。

例えば「間違った思い込み」という表現を使われると私の場合はちょっとギクッとした心持ちになり構えてしまいやすい。

これはいい知らせである可能性しか孕んでいないと個人的に捉えています。
ですがギクッとグエっと、緊張してしまいます。それが私という人間。

「間違った思い込み」を使った文言の先へと続く道は「本来私を解き放ち、楽にするもの」という新しい物の見方、解釈、検証、経験談であったり光とスペースであるにも関わらずです。
勿論これは同時に「あなたを解き放ち、楽にするもの」でもあります。

伝える側が何を目指して私へと手渡しているのか。
私はあなたへ何を目指して手渡しているのか。

それって私とあなたが笑うこと?それって私とあなたが救われる?

双方何を発しているのか。
何を纏っているか。 

識別する。

関係なくて誠に申し訳ありませんが誤変換で纏って🐬が出てしまい、かわいいので置いておきます。

授受は片方だけでは成り立ちません。

じゃあ何で構えてしまいやすいか?
ひとつには私が極度に怖がりであること。
「お前は間違っている」「変わり者だ」と謗られたケースが多すぎる事など経験値などに紐付けられた感情、and more.

でもそれすら、「それこそが私の間違った思い込みそのもの」であります。
私の場合は感情がひとよりくっ付きやすい。

そしてそれを渡してくる人も感情をくっ付けて渡してきやすい。

確かに私の経験は真実ですが、私の場合で言えば真実である体験とその事象に纏わるetcはたまたま組み合わせられやすいだけのこと。
そうひとまとめにして扱うとどちらも処理の手間が減り、そういうもんなんだというお馴染みの誰も説得出来ず納得もうまない構図で片付けられる。
何とも雑な感じだなと我ながら思ってしまいます。

自分のことは丁寧にやった方がいい。
私はそれを念頭に最近やっています。

「間違った思い込み」の前にあるものとその先へと続くものに分けて考える時、自ずと「教え」や「決まり」が元にあります。
所謂ソース元ですが、文献やら引用ならばそれは誰の目にも明らかですが。

ほれ、ここにはこう書いてあるじゃろと。

しかし私やあなたが暮らしで出会うものは大抵ソース元自体が一次情報に当たらないこともしばしばです。
時には該当しないどころか、一考に値しないというと過激でしょうか。

常識や、普通、みんな、世間という一次情報ですら無いものに苦しめられてきた私たちも多いよなあとつくづく感じています。

私が含まれてないならそれは世界じゃないし、あなたが含まれてないのも世界じゃない。

ないならつくる。私もあなたも。
在るなら交わらせる、私もあなたも。

あなたの世界はどうでしょうか。

刻々と変わりいく由無し事の如き、取り留めのない私のお喋りのように基準やルールはその形を変えていく。

私の場合はこの「間違った思い込み」を解除していくにあたって「識別」を第一にもってきます。

人それぞれやり方やパターンが異なるのでいつも通り単に私はこうだよという提示に過ぎません。

私の中で「識別」「区別」「分別」で仕分けするのは結構便利で簡単ですきです。

リサイクル、アップサイクル、リユース、リニューアルなどの際にあなたも日々これらの視点で仕分けを行なっていると思います。

実際なかなか大変ですよね。
市町村でもかなりその基準は異なります。

でも面倒がらずにやることで私、あなた、その先にそれらを待っている私たちも楽に快適に過ごせるという恩恵が受けられます。

負担が減って、喜びや快適さに繋がること。
新しい道やもの、世界が広がるための個々の取り組み。

それを誰よりも享受できるのは識別を行う自分とその先に待っている私やあなたであり。

認識、識別、連携、共有、共存。
これは私の今年のテーマとして取り扱っているものです。

そうして私は今日も今日とて、私の中にある差別や先入観、偏見を削減撤廃に取り組み。
住みやすく、呼吸が楽で、笑い合う空間や世界をつくり始める。
少しずつ少しずつ、よちよち歩きで肩の荷を降ろしています。

あなたは今、どんな荷下ろし積み荷を担っていますでしょうか。


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