見出し画像

アレルギーと明暗、苦楽

好物を食べ続けていたらアレルギーになってしまってしんどいし、驚いた。

そんな話を数年前によく耳にしました。

単なる好き嫌いの感覚とアレルギーは明確に異なります。

アレルギーには対処法という心強い味方があります。

これから話す事はいつも通り私の独断と偏見によるもので、重篤な症状や当事者の方を軽んじる内容ではありません。何卒ご容赦ください。

春は大好きなのに、花粉症で違った意味で春霞がかかる。
好きだけじゃ凌げない。

かわいい素敵なアクセサリーがあるけれど、金属アレルギーでつけられない。

ここまでの三つはあなたも小耳に挟む事があったんじゃないかと思います。

私の場合、「苦しい人間関係」、「理屈ではわかっていても飲み込めない人間関係、コミュニティ」について、これを当てはめて脱したようなところがあります。

特に「好物がアレルギーへ変化」を遂げた、と暫定処置をしました。

すると、心の重石が何だか少し軽くなりました。
好きだけど食べられないならそうもなる。急変は苦しかろう、と腑に落ちやすい。

グエ、ギエ!と心身が苦しむ度に、のたうち回り断末魔を叫ぶ度にそれを思い浮かべる。そうして、薄めていきました。

薄めて鎮める。外側から眺める。

そうして、今度は食わず嫌いや過去に好まなかったものへ目を遣る。手を伸ばして確認する。

本当に?本当に今でもそう?と。

食わず嫌い、過去の好まないもの=好物の海、宝庫なのでは?という仮説に基づいて試行錯誤しているのが今の、今後の私です。

例えば私ならカボチャが嫌いです。
きっかけは給食のカボチャコロッケの風味がどうしても苦手(油の匂いが変だったと記憶)な上に昭和恒例の拷問。
食べるまで帰らせない、教室の後ろに席を離され残される。をいつも受けていたからその体験で生理的に無理となりました。

でも私はカボチャの風味が嫌いな訳じゃありません。記憶や体験に紐付いたあの感情、感覚がくっ付いて芋蔓式に出てくるのが嫌だし、しんどいだけで。

当時食が細かった私は食事全般を楽しめなくなってしまいました。
全てが美味しくて好物でもあっても適正な量であっても当時の私には多かったんです。

半人前、一人前とはよく言ったもんだなあと唸ってしまいます。
半ラーメン、半チャーハンをメニューに置いていた街のラーメン屋さんは偉大です。

大人の今は緩和されています。
そしてここからは何事もその宝庫から取り出し海を泳いで手に取っては「これは宝かも」と一つひとつをあたっていく旅路です。

今まで視野に入れてこなかった範囲の方が誰しも広い。
人の視野には限りがあるし、手も二本しかありませんがこの世は広大。

存在するものや提供されるもの、展示されているものは膨大。

宝の海、宝島であなたと喜び合える旅路です。

あなたの真、宝島の地図はどうでしょうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?