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それは献身に値するか

来し方を振り返る時、行く末を見据えて前進する今。
表題の言葉を口にする。

私の場合は何事においても独自路線。
極端且つ過激派の趣もありますのでよくよくこれを鑑みることが肝要です。

無闇、闇雲な情熱。盲信的とも取れる愛、尽きせぬ情動。一心不乱さ。
いつも通りそれが悪いとかどうとかの話ではなく。
こういった持ち物を破棄する事なく軌道修正をかけながら使い続けて行く旅路の中で、あなたの持ち物にも同時に想いを馳せる。

暮らしの日々でしたこともされた事ももっと社会的なことも「それって愛なのか」と自分に問うてきました。

相手にそれがなかったならそれまでの事、と処理し捨て置く。
時を経なければ行動したって改善策が通らない。
それが自分にあれば自己犠牲を払ったとて致し方ないこと。
そんなところが過分にあった私です。

ご覧の通りこれは自分を追い詰め苦しめます。 
終わりのない苦行。「何しに来たんだよ、私は……」てなもんです。
だからもうやめるんすよ。
バスっと断ち切る。
ご一緒にどうすか。

ひとから外側からのことはさておき。特に自分が行った事は愛から出でたものであるか?
という点に些か拘泥し過ぎていたなと思いました。

すぐ拘泥し、泥んこになる私です。

愛や情、行動に正誤はなくとも誠実さと不誠実さは歴としてある。

大切にしたいのはやはりそこ一点でいい気も致します。

それがどのような愛であっても献身に値しない事は多分にしてある。

愛とは誠実であること、と言い換えられるのかもしれません。
そしてそれは外や人へ向かうものでなく、己をいかすもの。

やめる。見限る。

つまり私はどんな自分も許したいのだと思います。
手を貸さないことを許したいし、手を取ることもゆるしたい。
非難されることもすることも赦したい。
どんな私でもいいじゃないのさと、この機に乗じてとことん腹へ落としこみたい。

近ごろ、緩めることは長生きすることだなあとひしひし感じています。
こんな事じゃ長生きは出来ないんだから自分をとことん緩めていくことをしています。

じゃあ緩めるって結局どんな具体的なやり方があるの?て話ですが。
今は私やあなたに合うやり方を色んなあなたが精魂込めてあちこちで披露してくださっています。

簡単なことから本格的なことまで、経験を踏まえた優しい眼差しで差し伸べられているあらゆるあなたの想い、やり方に暮らしは満ち溢れています。

それを取り入れて、「わあー、いいわー」「楽だわー」「うれしいね、わっふぉい」と感じるもの。
そう私とあなたの口をつき微笑むものなら何だっていいと思います。

やっちゃらんねえな、おいと思う事は共にやめて参りましょう。

そんな事を想う午前。

あなたはこの立夏の時を如何お過ごしでしょうか。


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