コロナになって気づいたことがある

ぼくは新卒1年目のサラリーマン。サラリーマンという肩書をもらった学生という表現の方が適切なんだと思う。まずはあなたが抱くサラリーマンを想像してほしい。もちろんオフィスレディーでもいい。いいやこの時代そういう表現はふさわしくないと感じる人は、あなたが思う会社員像で考えてみてほしい。

まだ眠気がのこる月曜日の朝。春夏秋冬問わずなぜか布団から出られない朝6時半。温度だけじゃないぬくもりを内にこもらせる毛布を出社という義務が投げ飛ばす。起き上がって寝ぐせを水で濡らしてその間にパンをトースターで焼く。たまったLINEがあるか確認して、アプリのアイコンの横に「1」という数字を見てなんだかむなしい気持ちになる。よしっと壁に小ぎれいにかけたスーツを着る。そして髪形をセットし、ちょうどいいタイミングでパンが焼ける音が鳴る。こうしてパンを口にくわえて家を飛び出す。

サラリーマン1年目はこんなもんかと想像してみた。こんな生活がくるんだと、僕は思っていた。しかしコロナになって出社もなくなって在宅での勤務になってこの想像はただの想像でしかなくなってしまった。

実際のところは、朝起きて数メートル先にある机に座れば出勤だ。壁にはスーツもかかっていないし、髪形も自分が嫌いにならない程度に整えるくらいだ。こんなゆるい脳のぼくは机に座るという誤植をやってのかした。実際は椅子に座っている。

と、あんまり具体的な記述は避けた。というのも在宅勤務のリアルな実態を書きすぎると、ぼくのことを好いてくれる人や会社の関係者や地元から見守ってくれる家族たちをどん底にまで突き落とすくらいの自堕落な生活をさらしてしまうことになるからだ。もしもなにかの拍子で情熱大陸の密着のオファーが参りこみ、ぼくの仕事っぷりを特集したとしたらそれはまたたくまに社会派のドキュメンタリーと化すだろう。

机に座って与えられたタスクをこなすという点以外は学生時代と何一つ変わっていない。いまだに大学から徒歩5分の場所に住んでいるし、同僚と仕事終わりに飲んだりだってしていない。

そんな環境でも仕事でもやりがいと達成感を見つけ出してなんとかやっている。今回のテーマはぼくの働き方と大きく関係している。仕事をしていて会議があるとき、誰かと何かについて相談するとき、同期と話すとき、全部Zoomを使う。そして僕の部署は新しき伝統といえるのだろうか、カメラをオフにして会話をする。画面上に見えるのはゴシック体ででかでかと書かれたその人の名前。その人の顔や表情といったものはまったくもって見えてこない。いや、仕事をするうえで必ずしもカメラをオンにして会話をする必要がないといえばそうである。生産性といういかにもビジネスライクな色眼鏡でビデオカメラのカメラのオンオフの是非ついて考えると真っ先に議題にあがるし賛否が割れるものだろう。とまぁそれはいいとして、顔が見えない中でコミュニケーションをとってきて気づいたことがある。おまたせしましたやっと本題です。人間はコミュニケーションを取るときに、音声(文字)情報だけではなく、感情を伝えているんだなということに気づきました。.....。こんだけ前置きを長くしておいて、たいして深い洞察でもないコミュニケーションの定義をあたかも初めて提唱した人かのように言った。ただその意味を感じるきっかけが、カメラをオフにしながら会話をし続けた日々だった。ある具体的な点のようなきっかけがあったわけではない。それはぼんやりと日々心に貯め続けた違和感の行きつく先が、このコミュニケーションの本質だった。なんでこんなことを書いてるんだーと思う人もいるかもしれません。いやそもそもここまで読んでくれている人はいないかもしれません。だんだんカメラがオフにする状況に慣れ始めていて、それと同時に感情を出すことさえも忘れそうになっている。もちろんビジネスに感情なんて必要ないのかもしれない。でもなんだろう、せっかくだし一緒にいるなら感情を共有してもいいんじゃないのー、って思ってしまう僕にとっては、やっぱりカメラをオンにして仕事がしたいなと思います。そう思い続けるために、文字に残そうと、ここにこうやって書き記しました。いやー適当ですみませんでした!!

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