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改めて、もう少し詳しいエンジニアになるまでの自己紹介2021年版

※ 旧ブログ、Frontend Life in DEのリライト記事。
※ 新ブログは Aiki x Developerhttps://aiki-developer.com)へ。
※ この記事は半年〜1年に一度更新されます

そういえば私がエンジニアになるまでのことについて、最近あまり触れていないなと思ったので、改めて、もう少し詳しく経歴も兼ねて今日は書いていきたいと思います。

幼少期から高校生まで

幼少期

幼少期は、あまり覚えていませんが、簡単に言うと不思議ちゃんで、超超超マイペースな子どもだったと思います 笑

ご飯を食べるのがいつも遅く、みんなが食べ終わって、外で遊んでからクラスの部屋に帰ってくるまで食べているようなマイペースさだったのは覚えています…

とにかく絵本大好きで、おばあちゃん、おじいちゃんが大好きで、バイバイするのが嫌でよく泣いていました。

猛烈な好き好きアタックをしてくる男の子がいて、その子にいつも追いかけられて「やだ〜」と言っていたそうです 笑

小学生〜高校生

小学生はとても小規模で、6年間同じクラスで過ごしました。

友達はあまり作らず、自分のはまっていることに黙々と取り組むのが好きなタイプで、俗に言う陰キャラでした 笑

みんなが外で遊ぶ中、詩を書いたり(小学生の趣味じゃないw)お気に入りの隠れ家的な場所でぼーっとしたり、クラスメイトからも地味で自分の世界に住んでいると思われていたような感じがします 笑

鬼ごっこが嫌いで、私が鬼になったらボランティアで誰かが変わってくれると言うルールが成立していたくらいのわがままでもありました 笑

両親の方針でゲームは全部禁止されていて、クラスメートの家に唯一お邪魔させてもらって一度だけCrash Bandicootをプレイさせてもらった時は感動ものでした。

一応家にパソコンはあって、小学校2年性からコンピューターの授業はありましたが、授業のマウス練習がつまらなくて何かもっとできないのかと思っていただけ止まりだったのと、家のパソコンでも英会話のビーゴ(BE-GO)と算数ゲームのマルチあきんどや、一太郎を使うだけのレベルでした。

中学生時代は、小学生の時に通っていた習い事は吹奏楽部に入ったので辞めて、部活オンリーの生活を送っていました。

技術部に興味を持ったりも特になくって感じです。

まず女子がいなかったので、そもそもの部活見学から外れていました(もったいない)

受験になってやばいと焦り、土壇場で勉強して、割といいレベルの高校に入ることができたのは、奇跡だと今でも思います 笑

高校時代から割と友達が増え、小中高では高校が一番楽しくてまあまあ青春?でした。

今思えば常に誰かに片想いしては振られで、よくそんな気力があったなと思うのですが 笑

勉強はここから失速し、将来何をするかわからなかったので、吹奏楽、音楽がらみで短大の保育科に進学することになりました。

今思えば文系と理系を決める時に、よく考えた記憶はないです。

1つだけはっきりしているのは、自分自身で私は数学が苦手だったので、自らその分野に進もうとは思わなかったというのは覚えています。

高校で赤点ばかりを連発すると部活ができなくなるし、成績に響くと思ったので、消去法で文系に迷わず選んだ感じでした。

ここまで来て思った人もいるかもしれませんが、今のエンジニアに関連のあるきっかけは一切まだありません 笑

だいたい小学生から高校生の間にきっかけがあった、ゲーマーだったから、趣味でコード書いてたっていうのが定番だと思うのですが、私は残念ながらこの時点ではまだ何もプログラミングとは接点がありませんでした…

ふと思ったのですが、私は高校生から携帯の所持が許されたので、それまではテクノロジーに触れる機会は家にある親のパソコンだけでした。

なんとかして友達と遊びに行く連絡は取りたいと思って、母の携帯をこそっと借りてやりとりをしていた記憶はあります。

でも携帯が持てるようになったからと言って、HTMLを書いてサイトを作った記憶があるかというと、それはないんですが、自分のブログを作っていた記憶はあります。

どうやって作ったかは覚えていないですが、結構な頻度で書いてて、片思いしてる人に気になってもらえてないだの云々を書いていて、大体次の日に友達はそれ知ってて話が通じるという感じでした。

その逆も然りって感じでコミュニケーションが成り立ってましたが、技術の方には興味がまだ傾いていなかったです。

短大生、大学生から新卒まで

短大生:保育系

このブログ(旧ブログ)のタイトル自体が「フロントエンド」だったり、私自身のoccupationがフリーランス フルスタック&フロントエンドエンジニアなので、なんで保育?と思われたかもしれません。

私も実は、どうしてあの時保育科に進学したのかよくわかっていません 笑

それもそのはず、進学しましたが、成績だけキープ、免許と資格、学位も取得しましたが幼稚園教諭、保育士として就職するのを完全に拒否ってました。

この頃から、レールにはまった人生の生き方に疑問を持つようになり、人と同じ、安定ということからいかに逸れるかという、世の中や制度に反抗的な自分に気が付き始めました。

地元では就職率がトップの保育業界では無敵の短大だったので、就職課、教授にとってはとても厄介な生徒だったと思います 笑

ただ、この時期にアメリカに行く1ヶ月のプログラムのために英語を猛勉強したので、英語のきっかけはこの時ですね。

当時マンツーマンで、しかも無料で毎週個人的にトレーニングしてくれたイギリス人のC先生の協力がなければ、今の私は成り立っていないかもしれません。

お母さんのような存在で、その他保育実習での悪夢を忘れさせてくれる唯一の癒しでしたね 笑

短大は超体育会系の県内保育業界を牛耳っていたところだったので、保育実習もスパルタで多かったし、常に実習が入っていて、大学に併設された短大だったので、同じキャンパスを歩くおしゃれを楽しんで余裕のあるスケジュールで楽しそうに歩くほかの学生を恨めしく見ていた記憶が強いです。

女子大、女子短大の環境で、私が在学していたときは唯一薬学部だけが理系の学部で、全く関わりはありませんでした。

一般教養をほとんど取れない保育短大に入っていたのもあり、技術系の科目は履修すらできなかった記憶があります。

両親の方針で女の私は県内しか大学、短大進学が許されていなかったので、選択肢が少なく、私の出身広島では女子大の数は多いのですが、その中に理系の学部がある大学が少ないので、理系の友達はほとんど圏外に進学することになり、文系は県内女子大が多いという偏りがあったと思います。

当時は、広島から出たことがなく、そういうことには気がつかずに、それで卒業式が終わって、4月になる前に土壇場で英語でインターナショナルに学べる大学に国際系の学部生として入学しました。

編入ではないので、長い大学生活を送らせてもらっています 笑

大学生:国際系

ここまできても、まだプログラミングに出会うきっかけは何もありません。

大学時代も、プログラミングが私の本当に興味のある分野だと全く気がつかずに終わりました 笑

でも私の英語の基盤はここにあります。

短大時代にお世話になったC先生のおかげで無事、インターナショナルな環境で英語で色々学べました。

半年間アメリカの大学に留学して単位をとったり、外国人学生とも一緒にプロジェクトに参加したり、友人関係はこの時が一番濃かったし、とにかく私生活も大学生活もほぼ一緒だったので、活動的だったように思います。

今思えば家とバイト以外は英語の生活でしたね。

アメリカの大学で、アメリカ人の学生にバカにされたこともあったけど、同等の成績をキープしたこと、万全の万全を期して完成させた卒論が一番力になりました 笑

食べ物廃棄と環境問題政策の何々っていう題目でひたすら調査していたのが懐かしいです ←覚えてない 笑

Entreprenourになる!と自分が何の専門を極めたいのかわからないまま、NPO, NGO関係に燃えていましたね。

技術系の科目の履修ができたかというと、私の専攻は授業が多いことで有名で、第3言語の科目すら履修できるタイミングは4年生までチャンスがなく、情報系で取りたい科目はあった記憶があるのですが、履修で取れなくて諦めていました。

アメリカにいたときはマークアップ言語の科目は履修できたのですが、取っている履修科目のみで成績キープするのにヒーヒー言ってたので、履修している友達から授業難しいと言われて取らなかったですね...

でも大学1年でタイに行ったフィールドワークで、活動をブログにしようというプロジェクトがあり、アメリカからの姉妹校の学生たちと一緒にWordPressでブログを作りました。

一応リーダーだったので、WordPressのダッシュボードの画面を触ってHTMLをその時に本を買って勉強した記憶があります。

バックグラウンドゼロで技術書から入ったので、難しくてやめたんですけどね 笑

当時はプログラミングには私は一生もう関わらないと思っていました。

人生何が起こるかわからないですね。

そんな感じの大学生でしたが、それでもやっぱり就活はやって来ます。

就活

就活をしたのか、先に答えを書くと、していません。

「え?就活したから就職一旦したんでしょ?」

と、目次を見た人なら思ったかもしれません。

曖昧なんですが、私の中では就活してないんです 笑

具体的にいうと、大学4年の時に就職課に通ったり、企業説明会に行ったり、日本の企業の面接に行ったり、そういったことを一切してないんです 笑

しかも、またレールに乗った人生に反感を覚える自分がいて、ここまでインターナショナルに好き放題して来たのに、またレールに戻るのもな、と思ったわけです。

だから一応5社くらいドイツ企業に応募はしましたが、もちろん通りません 笑

ドイツに住んでもないし、ドイツ語もできないし、専門スキルもない人材はプラスにはならないわけです。

そりゃそうだよなと思って、大学4年の初夏にドイツ企業に応募するなんちゃって就活もやめて、夏休みをドイツで楽しく過ごしました 笑

今のパートナーとこの少し前に知り合って、1年以上は付き合っていたので、仕事がドイツに決まれば楽だねということでドイツ企業に運試しで送ってみたわけです。

簡単にいうと、大学生時代に接客業、塾のバイトを掛け持ちで山ほどして来ましたが、海外では一切通用せず、もはや学歴と関係ないものはカウントされないんです。

ということで、日本でもドイツでも就活をやめた / しなかったわけですが、ドイツに行く途中、とある中東大手の元客室乗務員でおそらく人事の人とトランジット待ちで仲良くなります。

就職したエアラインの人ではなかったのですが、

「うちのエアライン受けてみなよ、私ならあなたみたいなタイプは採用する。」

と言われ、客室乗務員とかハードル高えなと笑っていたのですが、いや、あんたは受かるわ、受けてみ、と何回も言われたので、ドイツから帰ってあのエアライン受けてみるか、となったわけです。

仲良くなった、おそらく人事だった人のエアラインは募集していなかったのですが、その時唯一国内外で募集をかけていたのが、別の大手中東エアラインだったので、受かればラッキーで受けたら採用されちゃったということなんです←

そんなこんなでドイツではなく、卒業式にも出ず、学位は取って形式上卒業してドバイに引っ越すことになります。

新卒:客室乗務員

ここまで来ていつプログラミングに目覚めるんだと思った人もいるかもしれません。

お待たせしました、ここでプログラミングに私はようやく出会います 笑

国営の超大手エアライン、エミレーツのブランドは中東でも外でもすごくて、とてつもないプレッシャーでしたが、待遇は今思うと「うーん...」って感じでした。

トレーニングと、免許維持のためのプレッシャーと業務はスパルタ以外の何物でもないんですが、一言で言うと収入は普通でした 笑

中東では給料は高い方だったそうですが、高いといっても、外国人として専門スキルもなくUAEで働くとすればの話です。

なのでもちろん待遇はパイロットに比べると雲泥の差があります。

そして全体的に中東と、会社、フラットメイト、遠距離恋愛継続の状況、健康、精神衛生面で非常に限界だったのが嫌で嫌で、接客業の極みだったのも後押しして、人がとにかく嫌いになりました 笑

勤務時間外で、街中で誰かがクレームを言っているのを見かけると、ものすごいストレスを私も感じるほどになっていました。

あまり話とは関係ないですが、予防接種のアレルギー反応と、フラットメイトが飼っていた猫のアレルギー(結構重い)と、海外の風邪薬の薬アレルギーのトリプルパンチで、移住と入社早々に、アナフィラキシーを起こしかけ、死にかけました。

フラットメイトは乗務でいないし、セキュリティーのおっちゃんに電話したくても、立てなくて、呼吸ができなくて、トイレでどのくらいかはわかりませんが、突っ伏して意識がなかったです。

奇跡的に自分で気がついたんですが、気がついてなかったら終わりでした。

そんなこんなで病院とトレーニング、もしくは乗務を行き来しながらの幕開けだったのは、嫌なことのほんの序章なのですが 笑

嫌なことがありすぎて、あとの詳細は記憶から消したので省略しますが、この状況をなんとかしたくて転職を決意します。

でも客室乗務員の経歴は日本でも海外でも、何の役にも立たなかったんですよ。

カスタマーサービスの役職でドイツ企業にまた応募していましたが、だめでしたね。

そこで専門性を身につけることに意識が傾きました。

正直、乗務しながらオンラインで学位取得のために勉強しているクルーは多かったです。

翻訳を以前オンラインでおこなっていたので再開したのですが、フライトの傍、微々たる単価の低い業務で絶望感を覚え、翻訳は違うなと思ったんです。

そこでプログラミングなら世界的に需要も高く、英語が必要でフリーランスでもやっていける上、勉強にかかるコストも低いことがわかったので、フライトの傍コースを受講して転職に備えました。

客室乗務員を辞めてから、ドイツでフリーランスのエンジニアになるまで

退職 & 転職準備

1年きっかりでエミレーツを辞め、本格的にオンラインのプログラミングスクールに2ヶ月半、寝るのと食べる時間以外はひたすら勉強しました。

コース受講中に初クライアントの案件の業務をしましたが、不払いになりそうだったので、契約を切ったり、知人のWebサービスを無償で作って、コース終了とほぼ同時に納品したり、この時からフリーランスでなんとなく案件を取るようになっていました。

一番この時が楽しかったです。

わからないことができるようになるというのと、今まで無理だと思っていたプログラミングで難解なエラーが解決した時の嬉しさにハマりました。

それと、ドバイに疲れていたので、久々の実家と地元がとても嬉しかったのもあると思います。

本当に少しずつですが、オンラインで案件をとるようになり、たくさん失敗もしましたが、ここでの下積みは役に立っています。

(まだまだ今も下積みのレベルですが 笑)

フリーランス フロントエンドエンジニア

実家と地元に4ヶ月ぐらい滞在している間に、ポートフォリオに載せることのできる作品も増えていったので、はっきりしていませんが、次第に自分の職業名をフリーランス フロントエンド エンジニアに変えていきました。

新人のエンジニアはいきなりフリーランスは無理とよく言われますが、「できない」を前提にするのは私のやり方ではないので、まずフリーランスでたくさん失敗して成長しようと思いました。

これは今でも変わらないです。

他にあまり前例がないことをするのは確かに怖いですし、自分を本当に信じる必要があります。

だいたい心配してくれている人には反対されたり、大丈夫なの?とか、何をしているのかよくわからないけど、と言われたりもしますが、自分のプランが本当に現実的かを見直す機会と思って、ポジティブに考えるようにしています。

まだまだ勉強中の分野もあったり、新しいフレームワークを学んだりしながらですが、それなりに自分を売り込むことができるようになり、知人を通して仕事の機会は入ってくるようになってきたのが、ドイツへ移住をして半年から1年経った頃。

仕事の幅を増やすためにも、Wordpressや、Git、Node.js、React.js、API、AWSなど新しい言語やサーバーも勉強&実践しました。

ドイツに移住

ドイツには2017年の6月から移住しました。

パートナーと一緒に暮らしたいことと、現地の企業でチーム開発に携わるチャンスもあればと思って引っ越してきました。

フリーランスにいきなりなってみたのも良い経験だったのですが、収入の問題、エンジニアとしてもっとシビアに経験を積みたいということもあって、フリーでエンジニアの仕事をしつつ、現地の企業にエンジニアとして応募もしていた時期もありました。

いいところまで行っても最終結果でダメだったり、返事がなかったり、人手不足で役職名と仕事内容が合っていないのに採用されかけそうになったり、色々なのですが、それでもワーホリでの期間で滞在が許されている限り、粘り強く応募し続けようと思って、一応チャレンジはしました。

プログラミング、エンジニアとは関係ないのですが、少し地方に住んでいるので、ドイツ語が意外と足を引っ張っているなーと就活で思ったのが、移住1年目でした…

技術は問題ないんだけど、やっぱりドイツ語もわかってほしいんだ、ごめんと断られたこともしばしば。

移住直後〜今

移住して半年後には、新卒フリーランスの言葉を生み出した、当時ベルリン在住ブロガーだった、wasabiさんという方の海外フリーランス養成スクールサロンとRoamers Space(現在は運営されていません)で、いくつかWordPressのコースを担当しました。

wasabiさんのブログはこちら


最初は私の作ったWPテーマを売り込んだのですが、wasabiさんはビジネスにつなげるのが本当に上手で、あっという間にサロンで複数コースを教える機会をいただくようになりました。

wasabiさんつながりでオンラインプログラミングスクールでもメンター講師をすることになったり、いくつか企業からも良さそうな案件の声がかかったり、リモートでチーム開発のディレクションをとったり、割と移住して1~2年は、こんな感じで少しフリーでも波に乗ってきていたように振り返って思います。

まだまだですが、フリーランスのエンジニアとしてドイツに住み続けるにしろ、企業のチーム開発に加ってドイツに住み続けるにしろ、どちらのケースになっても問題ないよう頑張っているのが私の現在です。

そして、フリーランスではなくなり、新しいステップを今年6月から踏むことになります。

そのことに関しては、以下で詳しく話します。

そのうち、色々新しいフレームワークやライブラリなどに手を出すうちに、webアプリケーション開発が楽しくなってきました。

JamstackやStatic Site Generatorサイトの開発で、Gatsby、Contentful、Netlifyの組み合わせた開発で、初めてちゃんとリリースしたwebアプリケーションを実装しました。
その組み合わせで、Contentfulのエヴァンジェリストの方の目に留まったらしく、その方と話が繋がったりなんてこともありました。

移住2年目が始まった頃には、合気道を始めたり、キャリア以外のライフスタイルも見直すスタートになりました。

2019年は、めでたくフリーランスビザ を、無事このエリアでおそらく?初取得をして、Contentfulから「仕事してみない?」と面接を経験したり。

自分のライフスタイルを見直して、やっぱりフルリモートを貫きたいと結論を出したことで、結果には繋がらなかったものもありますが、経験になったことが2019年は多かったです。

2020年は、Strapiという従来のCMSを覆すサービスを使ったECサイト開発のチュートリアル作成のプロジェクトや、Strapiをエンジニアとして広めるプロジェクトに、StrapiのGrowth Hackerから誘いがあり、携わっていました。

忙しくなっちゃって、チュートリアル作成は実現しませんでしたが、2020年は、Strapiを使って、食事管理とインスタを組み合わせた、食事管理を楽しくすることをコンセプトにしたwebアプリケーションを開発していたこともあります。

その後、2020年1月からオーダーメイドプログラミング学習サービス「Lilac(ライレック)」の個人開発を始め、2021年1月からは、教材の大幅リニューアル、英語圏の登壇経験を積むべく、いろいろ応募したり、通った登壇スピーチの準備をしたりしていました。

その頃、自分の中で大きな変化があったのは、2年以上メンター講師をしてきたオンラインプログラミングスクールがなくなり、今度は自分でオンライン プログラミング学習サービスを作って、自分のプロダクトでプログラミングを教えることに決めたことです。

それがLilac(ライレック)でした。

現在は、私がフリーランスではなくなり、運営が個人メンタリングサポートでは難しくなったので、無料コミュニティとして開放しました。

それが、新しくコミュニティ化したLilac(ライレック)で、コンセプトは「日本のプログラミング学習コストの格差を無くし、スキル、知見、経験シェアの支え合い型無料コミュニティ」です。

コミュニティ化して3日で、Discordに40名以上が参加をしてくださっていて、非常に嬉しいです。

教材は、私と有志のエンジニアの方で、次世代エンジニア育成に貢献してくださる方を中心に、オープンソース形式でフロントエンドから充実化を図り、読むだけでも理解できるよう、視覚的実例を多く取り入れた無料教材を随時作成してリリースしています。

全ての本が無料公開です。

コミュニティに入っていない方でも、どなたでもこちらからご覧いただけます。

Lilac(ライレック)の詳細は、こちらのnote記事にも書いています。

さて、フリーランスではなくなった経緯を、最後にざっとお話しします。

単刀直入にいうと、2021年6月からStoryblokという、次世代Headless CMSをプロダクトにもつ、オーストリアのSaaS企業のDeveloper Relations Engineer(DevRel)として就職します。

経緯は、私は毎年春から夏の間に面白そうな企業が声をかけてきてくれた場合は、力試しで何社か面接をエンジニアになってから続けていました。

トライした数は、フリーランスで満足していたのもあって、多分少ないですが、その中でStoryblokが最も魅力的で、そしてオファーをいただいた職業もDevRel Engineerだったからです。

DevRelの仕事は、アプトプットすることで関係性を広く構築していく役割が大きく、まさに私が好きでずっとやってきたことを続けていいよ、続けることによってコミュニティと一緒にチームで成長していけたら嬉しい、ということで、双方にとって非常に良いお話しだったからです。

もちろん採用試験を経てなので、きちんと公平なプロセスでいただいたオファーです。

採用プロセスが始まる前から非常に暖かく迎え入れてくれるオープンな企業カルチャーがあり、今まで全ての職業で受けてきた面接の中で、一番勉強になり、また最もポジティブで楽しい面接でした。

初めてエンジニアとして企業で働き、また、初めてDevRelというポジションで仕事をすることになるのですが、不安は少なく、楽しみで早くチームに加わりたいという思いの方が強いです。

もう数ヶ月して、働き慣れてきたらこの記事ももっと具体的にどんなことをして貢献しているかなども加筆できるかと思います。

という流れで、私はプログラミングと出会い、エンジニアになりました。

ダークサイドであったエミレーツのことは、別note記事に書いて、読みたい人だけに公開しているので、詳しく書きませんでしたが、でもあの経験がなかったら今の私もいないので、人生に起こることは全て意味がありますね。

こんな感じで、なんとなく私がどんな人か、何をしてるのか、何をしてきたのかがもう少し詳しくわかる記事を書いてみました。

ふーん、客室乗務員からフリーランスのエンジニアになった人か、面白いバックグラウンドだなとでもなんとなく思っていただけたら、私は嬉しいです。

では、

ちゅーす


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