東京都現代美術館のデジタルアート

 東京都現代美術館がリニューアルしたが、常設展の最終展示室は、以前と変わらない。無数の赤い数字が明滅し、意味のないカウントを恒久的に続ける巨大なデジタルアートが壁に掲げられている。
 二十年前から、ずっとこの場所に存在し続けているようだ。

 大江戸線は開通していない。
 半蔵門線は延伸していない。
 (水天宮前が終点だった。)
 清澄白河という駅自体がそもそも存在していないから、東西線の木場駅から時間をかけて歩いた。(東京メトロではなく、営団地下鉄である。)海抜ゼロメートル以下の領域に広がる江東区の平面に一直線に敷設された幹線道路の上を、一人でただ歩いていた。
 赤信号で止まり、青信号で進む。歩行者用の青信号は、発光ダイオードではない。
 都知事は青島だったか石原だったか曖昧だ。
 北へ向かう都バスに追い抜かれる。その前面に掲げられた電光表示の終点は当然ながら「東京スカイツリー駅」ではない。
 二十世紀であり、平成である。

 江東区がもし一個の生命体だとしたら、その地表に並ぶ建造物は皮膚の角質や角や爪であるだろう。地下鉄は血管やリンパ節に該当するだろう。動物において、外科的な領域の変貌は極めて明確であり、誰もが容易に視認しうる。一方、内科や循環器科の領域における変異は必ずしも明示的ではない。しかしその生命活動に対する影響力は、後者も決して小さいものではない。
 
 現代の来訪者は、清澄白河駅のコンコースに掲示された地図を参照し、目的地を確認するだろう。路傍の看板に従って商店街を東に通り抜け、この場所に到るだろう。抑も掲示物を参照する必要すらなく、ただ掌上のスマホの画面で二本の指を動かし、グーグルマップをスクロールさせるだけかもしれない。新しい動脈から分岐する新しい毛細血管。新しい神経細胞を統制する新しい情報伝達システム。そういえば、先月から元号も令和に代わっているようだ。

 そしてまた、江東区がもし一個の生命体だとしたら、その姿は水面下に棲息する扁平な両生類に似ているだろう。現代の日本において珍しいことに、この両生類は極めて多産である。今でも成長を続けている。
 
 遥か昔の少年時代に逸失した腕時計を、白人の男が自宅の庭で発見する。カシオの製品群の中でも最も安い、いわゆるチープカシオ、チプカシと呼称されるデジタル時計だ。世紀を超えて正確に時を刻み続けている。当時も今も日本円にして九八〇円程度の値段で売られている。誤差は極めて少ない。男は感嘆し狂喜し、その泥だらけの時計との劇的な再会のエピソードをセピア色の演出に染色してユーチューブにアップする。世界中から多くの称賛と支持が集まる。一連の経緯を熱く朗らかに語る男の笑顔には、圧倒的な善良と純朴とが直截的に表現されている。
 二十世紀にユーチューブは存在していない。

この展示室は撮影が許可されている。スマホで撮影してツイッターにアップする。二十世紀にはスマホもツイッターもない。
 鑑賞者の見知らぬ女性が画像の右端に映り込む。二十世紀のある瞬間において、この場所にこの女性が、嘗て立っていたことがあるのかどうかは分からない。
 展示物が放つ光のために、空間は常に夕映えの中に存在しているかのように全て赤い。二十世紀には、青色発光ダイオードは普及していない。

 閉館時間が近い。
 美術館の前庭に出る。
 北の空にあるはずの、スカイツリーを探す。
 この時間になっても、五月の空はまだ充分に明るく青く澄んでいるけれど、タワーマンションが大きく視界を遮っているために、その姿を見ることは出来ない。

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