見出し画像

ありがとうと言える毎日

気付けば2023年が始まってもう20日を過ぎている。
1月も下旬だ。
自分的に、一年を通して「ツイてない」と感じていた2022年を終えて、心機一転新しい年が来るのを楽しみにしていた2023年だったけれど
えーっと、私、何かしました?そんなに悪い子でしたか?
と、誰かに聞きたくなるようなスタートを切っている。

確かに2022年は、色々なことがあったけれど
それでも1年を通して愛犬が元気だったことが私の唯一の心の救いだった。
高齢なのでもちろん小さいことは多々あったけれど
その時その時で対応できるもので、愛犬の体調に関して何ヶ月も思い悩むことはなかったし
何より、愛犬自身がとてもご機嫌に過ごしてくれていたのだ。
それがどんなに幸せで、どんなに貴いことだったかということを痛感する毎日を今過ごしている。

年が明けてすぐ、愛犬の病気が発覚した。
昨年末からフードの食いつきが悪くなっていたけれど、私なりに病院の先生と相談して対処していた。
また、体全体のチェック(血液検査やエコーなど)も3ヶ月おきにしていたので、病気の発覚は青天の霹靂、寝耳に水である。

そして、発覚したきっかけもまた偶然のような出来事だった。
年が明けて1月3日。
前日まで元気に散歩をして、なんなら年齢を感じさせない脚力でダッシュをして楽しんでいた愛犬。
ゴハンもなんとか食べていた。
しかし1月3日の朝、いつもフードは欲しがらなくてもおやつは食べるのに、そのおやつすら口にしなかったので、おかしいなと感じた。
相変わらず仕事が忙しかった夫の正月休みがその日までだったのもあり、明日からまたワンオペが始まるというタイミングだったので、一度病院に行ってみようかなという、私としては軽い気持ちで向かったのであった。

病院の先生も、あまり深刻には考えておらず
ちょうど今月末に3ヶ月ごとの健診をしてもらう予約を入れていたので
少し早いけれど今日やっちゃいましょうか~みたいなノリで検査してくれた。
…それでの発覚だったのだ。

そこから、今の今までの展開の早さに
正直自分でも心が追いついていないところがある。
もちろん高齢ではあるので、いつかは…という思いが常に頭の片隅にはあったものの、うちの子に限ってと思いたい気持ちの方が大きかったのは確かである。
そして、私は自他ともに認めるペット依存症だし、こんなに急にその現実が目の前に迫って来ようとは思いもしなかった。

とにかく最初は毎日泣けて泣けて仕方がなかった。
すぐに入院して手術となったが、愛犬の不在を思っては泣き、面会に向かうバスの中では泣き。
本人(本犬)の前では泣かない!と決めていたので(絶対に何かを感じ取ると思うのです)面会している時はぐっとこらえ、ひたすら頑張ったことを一生懸命褒めちぎり。
また帰宅するバスの中で泣く。

帰宅して洗濯物を取り込もうとベランダに出た時
冬の空気と香りを感じて、寒くても一緒に散歩に出ていた冬の時期をいつか懐かしく思う日が来るのだろうと想像しては泣き。

自分に自信がなく
自分というものを持っていない私にとって
愛犬が全てであり
それではいけないと思いつつも、そうして過ごしていた毎日だったのだ。
いつかはやってくるその日を
考えないようにして、見ないようにして過ごしていたのが悪いと言えばそれまでだし
いつかはやってくるその日の覚悟も持てないのに
犬を飼っていたのか?と指摘されれば否定もできない。
そんな自問自答を繰り返す数日だった。(泣きながら)

やがて愛犬が退院してくる。
高齢での全身麻酔の影響は、病院の先生が予想していた以上で
帰宅してからも体調不良が続いた。
本人(本犬)としては、病院に連れて行かれる前日まで散歩で走っていたわけだし、食欲が落ちていたこと以外の体調不良はなかったんだと思う。
だから、突然病院で眠らされ
起きたらなんだかあちこちが痛い。
病院に行く前より食欲はないし
なんだか足腰も弱ってしまって
排泄にしゃがむのもままならない。
きっと私以上に戸惑っていたことだろうと思う。
そんな姿を見てまた胸が苦しくなる。

発覚した病気は完治が見込めず
あとどのくらい一緒にいられるか正直わからない。
だから今出来ることをするしかなく
私はとにかく、愛犬の体調が少しでも上向くように
愛犬が少しでもご機嫌ちゃんで過ごせるように
食事や生活でサポートすることを第一として過ごすようになった。
何より本人(本犬)がそうなのだ。
自分が出来なくなったことに戸惑っている様子は見せるものの
今を一生懸命過ごしてる。
スタスタと歩けなくなったけど頑張って前に進もうとしている。
夢の中で一生懸命走ってる。(足をバタバタさせながら寝ている姿はさすがに涙が出た)
食欲はないけれど、食べられそうなものが出て来た時は、もっとクレもっとクレとアピールする。
トイレに行きたくなれば自分で向かおうとするし
夫が帰宅すれば尻尾を振って迎える。
出来ないことはそれなりに受け入れて
あとは何も変わらないのだ。

そんな姿を見ていたら
先のことを思い、悩んで涙することはバカらしいと思えて来た。
友人がかけてくれた言葉がある。

〝寿命は誰にもわからないよ!〟

その通りなのだ。
統計上では、この病気に罹患した子の半分は半年以内に命を落とすそうだ。最初にそれを聞いた時、半年という短い期間、あっという間のその先に頭をガーンと殴られた気がして何もかもが終わった気がしてしまったけれど
半分の子は亡くなるけれど
半分の子は生きてるわけで。(これは先生がそう励ましてくれた)
自分の子がどちらに入るのかは誰にもわからないではないか。
もし、本当に半年以内でお別れすることになったとしても
毎日泣いて先を思い悩んで過ごした日々をあとから思い出した時
それはいったい私に何を残すんだろう?
それよりも
残された短いかもしれない日々を
今まで通り、いや、今まで以上に愛犬を愛して過ごすことが大切なのではないか?と思うようになった。
何より、この子がそれを望んでいる、と。

そう思うようになると
ゴハンを食べてくれてありがとう
散歩で歩いてくれてありがとう
ちょっと小走りできて良かったね!ありがとう
自分でトイレに行けて偉いね!ありがとう
今日も一日無事に終わったね、ありがとう!!
と、毎日、ありがとうという気持ちでいっぱいになった。
なんて幸せな日々だろう。
ありがとうなんて、そんなに日々たくさん思う感情じゃなかったので
それが毎日言える、思えるこの日々を大切にしたいし
そう思わせてくれるこの子に感謝でいっぱいだ。

…と、今日は思っている。
明日はどうかわからない。
でも、今日そう思えただけで良しとしよう。
そうやって毎日を大切にゆっくり過ごしたい。
どうかどうか
少しでもそんな毎日が続きますように。
どうかどうか
まだ彼女にもっと感謝する機会を与えてください。
どうかどうか…。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?