平等な幸せの気持ち悪さ

先日、「月曜から夜ふかし」を見ていたら、マツコが実に気持ちの悪いことを言っていた。
「もし、神様が一つだけ願いを叶えてくれるとしたら、ものすごく大きな幸せはいらないから、周りもほどほどの幸せにしてってお願いする。みんなが同じくらい幸せなら嫉妬しないから」という趣旨のことだった。
正直、「なんて気持ちの悪いことを言うのだろう」と思った。
しかし、スタジオはというと、「ああ」と微妙に頷く雰囲気。まあ、同調圧力的な雰囲気もあったのかもしれないが。

前に自分のブログにも書いたことがあるが、80年代・90年代初頭くらいまで、日本は「世界で唯一成功した社会主義国」と揶揄されることがあった。
みんなが、同じような家族モデルで、同じような収入。今はそんなことを言う人はいないが、当時は政治家が、「日本は単一民族である」と発言しては議論が起きていた記憶がある。今のようにギスギスしはじめたのは、バブルがはじけて、勝ち組・負け組なんていう言葉が流行り始めた頃からだ。

80年代は大量生産・大量消費の時代だった。90年代になって徐々に、カスタマイズがテーマになった。実のところ、私の卒論のテーマも、少品種多量生産から多品種少量生産に切り替わる工場のシステムの、注文特定サブシステムだった。人の好みに応じた生産をするための切り替えの時期だった。ちなみに、私が大学を卒業したのは93年の3月だから、卒論は92年頃の話だ。

自分好みのものを作れるというのは、それまでもオーダーメイドの世界ではあっただろうけれど、一般の消費がそういう傾向になっていったということは、同時に、今まであった「共通概念」は変わっていく。「幸せ」もそう。四人家族で親と子供が二人という昭和の典型的な家族構成は、平成になって見事に変わってきている。当然、幸せの形なんて、それぞれだ。いや、もともとそうなのだが、昭和の時代はそういう夢をみていられたのだ。

マツコの発言で気持ち悪いのは、幸せの形が人それぞれ違うのに、平等を求めることだ。
私はa-haのモートン・ハルケットが好きだ。彼は世界で一番尊敬している人物の一人でもある。(もう一人は父だ)
彼のインタビューを読むだけで幸せになるし、イライラしているときでも、彼の歌を聴けばすっとイライラが消えるほど好きだ。いつかは、彼とノルウェー語で話をしたいと思っている。環境問題とか、歌のこととか色々。
彼には内縁の妻がいるのだが、それで私は不幸になるか、彼女が羨ましいかと言われると、別に不幸ではないし、羨ましくもない。だが、ファンの中には彼の妻を悪く言う人もいる。
一部のファンにとっては、彼が内縁の妻と歩いてる写真は見たくもないだろう。
同じファンでも全くことなる。当たり前だ、人にはそれぞれ、自分のだけの判断基準があり、幸か不幸かは、その選択肢で決まるのだから。

関ジャニの村上ファンからみたら、マツコは羨ましがられる存在かもしれない。そういうところをいっさいがっさい無視して、「同じくらい幸せ」をもとめるのはおかしい。そもそも、実は今だって、神様からみたら、同じくらいの分量を与えられているのかもしれないのだ。ただ、何をもって幸せとみなすか、それは人それぞれ違うから、評価が変わるのは当然だ。

こういう、同じくらいの幸せについて考えると、マツコもいうように「ものすごく幸せにみえる」人が存在かもすることが、誰かを不幸にすることにつながるようだ。それがたとえば、「たいして才能もないのに」とか「たいして努力してないのに」につながっていく。しかし、本当に才能があるかどうか、本当に努力してないかどうかなんて、他人からは見えない話だ。つまり、誰かをものすごく幸せでずるいと思う瞬間に、我々は、不幸を自ら選んでいるともいえる。

だいたい、昭和の頃はたしかに共通幻想はあったけど、それ故にそれにあてはまらない人たちは今よりも苦しかったはずだ。それこそ、マツコのような嗜好の人には。男は男らしく、女は女らしくが強い時期だったのだから。

同じくらいの幸せというのは、そういうことだ。常に誰かと比べて、比べられて、はみでていないことを確認して浸る幸せだ。どうしてそこに気づかないのだろう。本当にそれでいいのだろうか。

幸せを感じる一番の近道は、他人と比べないことだ。自分が嬉しいと感じたらそれが幸せだと感じたらいい。私は時々、心が疲れた時は、手帳に、嬉しいことを書く。セブンイレブンのBGMで好きな曲が流れたとか、ラジオをかけたら好きな曲が流れてきたとか。虹をみたとか。なんでもいい。ちょっと嬉しいことを、毎日3つでも書いてると、一週間でかなりの幸せに気づける。神様に同じくらいの幸せと不幸を願うより、よほど健全でかつ簡単に幸せになれる。

#コラム #幸せ


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