完璧を目指す改善はもうやめようよ

まず最初に言いたいのは、「改善自体が悪いわけではない」ということ。でも、その改善、少し待ってみませんか。
ここ数年、「頑張る」という言葉がまるで悪の手先のような言われ方で「顔晴れ」という字面に置き換えられてみたりしている。
曰く、「頑張れって言葉は、頑張ってる人にいうと追い詰められるから。それよりも、笑顔でいられるように顔が晴れ晴れとしている字をあてよう」というようなことのようだ。
私はこの言葉を聞くといつも思う。「頑張って頑張って、悔しくて泣いたりしちゃ駄目なの?」。
 たしかに、たとえば子育てのことで一緒に育児すべき夫に「頑張れー」と言われると、かなり腹が立つ。これは、何も子育てに限ったことではなく、チームで仕事をしているときに、自分の責任を果たさない人に「頑張ってねー、俺のみに行くけど」と言われたときの腹立たしさと同じ。頑張ってる人がやり方がまずいときは、アドバイスすれば良いのだし、アドバイスをした上で「頑張ってね」と言われるのは、追い詰めることにはならないのではないだろうか。
 さて、去年から今年にかけて、藤原紀香へのバッシングが酷い。曰く、「頑張ってる姿をみせるのがむかつく」「たいした女優じゃないくせに」なのだそうだ。正直、何が悪いのか解らない。完璧じゃないから、彼女は努力しているのであり、また、彼女自身がミス日本出身だということを考えれば、ボランティアをやったりするのは、彼女の中では「自分の役割」として当然なのだと思うし、体型の維持にしても、「自分の価値」の一つが体型である以上、そこに力を入れるのは当然だ。特に最近は、アピールしないと「してない」ことにする風潮もあるから、「やってますよ」とアピールするのは、当然のことだ。
「シンデレラガール」という言葉があるけれど、彼女はそれまで色々してきたからこそ、最大のプロデューサー(魔法使い)によってプロデュースされ、そのアピールが届いて王子が見つけ出したわけで、自ら舞踏会にいかなければ、王子が彼女を探すこともなかったはずだ。偶然のラッキーは、シンデレラより白雪姫だと思う。まあ、それは兎も角として、シンデレラが「えー、かぼちゃの馬車ぁ?なんかださーい」とか、「ちょっ、鼠の御者って…っ。え、24時で終わり?えーー、もっといいのないのー?」と言っていたら、全てが誰からみても完璧なものに拘っていたら、彼女は舞踏会に行けただろうか。
まあ、恐らく無理だ。その時点で魔法使いは「あ、っそ。じゃあ、この話はなかったということで」と帰ってしまうだろう。でも、彼女はそこで「改善」ではなく「今できる最善」を受け入れたからこそ、舞踏会へ行き王子に会えたのだ。
 魔法使いもそうだ。「あら、あなたがもう少し痩せていたらマーメイドタイプのドレスもいけたのに」とか「そもそも、もう少しまともな材料があれば、明日のお昼間で魔法は問題なかったのに」とか言っていたら、やっぱり、シンデレラは王子に会えないだろう。魔法使いもシンデレラも「今できる最善」を受け入れ前に進んだからこそ、物語は進んだのだ。
 
 松岡修造が受けているのは、誰もが誰かに応援してほしいと思っているからだと、私は思う。でも、その反面、いつだって完璧を気にしすぎるから前に進めない。だからこそ、「完璧じゃないのに前に進む人」が許せないのではないか。そう、いつの間にか「頑張る」ことは、「才能のある人の特権化」してしまっているのだ。誰もが、「完璧」を目指す「改善」にとりつかれている。会社であれば「コストダウンと改善で完璧を目指す。従業員?あ、勿論、残業なんでしないで家族サービスしてるよね(にっこり)」という恐ろしいモラハラっぷりになったりもするわけで、それは批判の対象になるけれど、自分たちもまた、「あの人はたいしたことないのに頑張った姿見せないでよね!」と同じ事をしているのだ。

 昨日、Twitterで、草彅剛がスマスマで韓国語で会話したときの動画がまわってきた。すごいなあと思い、「草彅剛 韓国語」で検索してみたところ、その検索結果は非常に残念なものだった。
「スマスマで草彅剛が韓国語を話していましたが、発音は綺麗なんですか」
「あの韓国語はどんなレベルなんですか」
「カタコトで喋ってる、発音悪い」
みたいなもの。なぜ、何かに突出して見える人が出てくると、「本場(プロ)と比べてどうなのよ」という話になるのだろうか。これこそ、日本人が英語が出来ない理由の一つでしょう、発音がちょっと苦手でthの発音ができないとかLとRの発音の区別が苦手だとか、そういったことが「鬼の首をとったかのように」言われる。言っている本人も、別に発音が完璧なわけではないのに。
彼は、韓国が好きで、韓国語を勉強していて、韓国の人とコミュニケーションが取れるのだ。これ以上、何が必要だろうか。カタコトだからなんだというのだろう。彼自身が、「もっと発音を頑張りたい」「もっとスムーズに話せるようになりたい」と思うのは良いけれど、周りがそれをくさすのは違うと思う。

 いつだったか、私も言われたことがある。「あなたが頑張ってる姿を見せたり、お互い頑張ろうねと励まし合っているのを見ると、頑張れない人が傷つく」。うん、そうかもね。でもさ、頑張れない人は頑張らなくていいんじゃないかな。頑張りたい人に「頑張るな」ということや、その少しの綻びをくさすのは、相手が傷つかないとでもいうのかな。
 「改善」は良い言葉だよね。その言葉さえあれば、相手の欠点を堂々と批評し、まるで自分が優位に立っているかのように感じることができる。勿論、仕事をやる上で、「最善を探すための改善」は大事だ。でも、「完璧にするための改善」は、終わりがないし、何より、どれだけやっても褒められないのだから、モチベーションが下がっていく。
そして、この「完璧にするための改善」こそ、「誰かの負担になっている存在は悪」(本当は誰もが少しずつ、誰かの負担になっているのにも関わらずそこには目を向けない)として、先日のような大量殺人を引き起こすのではないだろうか。

 だから言いたい。もう「完璧を目指すための改善」はやめよう。それには終わりがないから、みんなが苦しくなって、「負う必要のない責任」まで感じ、周りを許せなくなるのだ。常にその時できる最善をする。体調が悪いときは休むのも最善の一つ。そして、いったんそこで終わらせて、前に進んでまた曲がり角に来たら、どの方向が良いかを考えたらいい。そしたら、冒険みたいで楽しいし、いつまでも一つのことを引きずることも、「上手くいかなかったことを責め続ける」こともなくなるのだから。

#コラム #完璧をめざす改善をやめよう  

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