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まよなかの散歩

まえがき

 この小説は、昔飼っていたシーズー犬を題材にした原稿用紙10枚ちょっとの短い小説です。ですが、昔書いたものなので、読みにくいところや意味不明なところが散見され、修正するのに2時間弱かかりました。とても疲れました。犬を飼いたいと言い出したのは僕なのに、飼い始めて数年経つと、散歩するのが面倒で、たまにしかしなくなりました。この小説の主人公のように、嫌々散歩していました。今となっては、「犬に申し訳ないことをしたな」と思います。父親が僕の代わりにほぼ毎日散歩に行っていたので、犬は僕より父親になついていました。犬は老衰で死にました。死ぬときは父親に見守られていたので、犬は幸せだったと思います。僕はそのとき、友達と外で酒を飲んでいました。本当に申し訳ありませんでした。

まよなかの散歩

 面倒くさい。散歩に行くのが、とても面倒くさい。
 タロウは室内犬だ。我が家だって決して狭くはない。マンションではあるけど、むしろ広いほうだ。わざわざ散歩などしなくても、運動は確保できているのではないだろうか。
 ただ、広いと言っても、残念ながら金持ちなわけではない。中の上といったところだ。ああ私は、もっと金持ちの家に生まれたかった。庭が広くて、外国の洋館みたいな豪奢なお屋敷だったらどんなに良かっただろう。室内で飼うにしても、外で飼うにしても、リードを持ってわざわざタロウの散歩に付き合わなくてもいいのだ。なんて素敵な犬飼い環境かしら。
 「おい! モトコ! さっさと散歩に行け! タロウが可哀想だろう!」
 お父さんが雷みたいな声で怒鳴った。ああ嫌だ。犬の散歩ごときで、そんなに感情を爆発させるなんて、何か間違ってるのじゃないか。犬を飼うってことは「癒し」であるって、テレビで偉い大学教授か誰かが言っていたじゃないか。もっと気持ちを豊かにできないのかしら。犬を飼ってストレス溜めるなんて、まさに本末転倒だ。
 コタツに下半身を埋めている私は、右目でテレビ画面を見て、左目でお父さんを見ようとしながら、「すぐ行くよ、すぐにね」と気のない返事をして、激情を振り回すお父さんをあしらう。
 「お姉ちゃん、タロウの散歩、行ってきてよ」
 私の反対側からコタツに足を突っ込んでいるお姉ちゃんに、私は猫なで声で懇願した。「私って、こんなかわいい声も出せるんだな」と自分でも驚いた。
 「嫌よ。散歩はあんたの仕事でしょ。それに、私は受験勉強で忙しいの」
 と私の目も見ずに言うお姉ちゃんは、テレビ画面に映る軽妙なトーク中の松っちゃんと浜ちゃんを、年頃の女の子としてはみっともないような半笑いを常にキープしながら眺めている。
 はて、いつからタロウの散歩は私の仕事になったのだろうか。私は志願した覚えはまったくない。犬の散歩っていうのは、家族一人ひとりが、順番に担当しなければならないはずだ。タロウは家族みんなのタロウなのだから。私だけのタロウじゃない。
 それに、「受験で忙しい」とお姉ちゃんは言うけど、勉強にいそしんでいるお姉ちゃんの姿はとんと見たことがない。大体において、漫画本を読んでいるか、今のように馬鹿面をしてテレビ画面を眺めているかのどちらかだ。
 私はお姉ちゃんのことが憎らしい。お姉ちゃんはいつも、自分の都合のいいように周りの世界を調節して楽に生きている。私だって楽に生きる権利はあるはずだ。こうやってコタツに埋まりながら松っちゃんと浜ちゃんを見てニヤニヤしていたいのだ。どうして私だけがこの真夜中の寒空の下に出て行って、タロウに奉仕しなければならないのか。世の中間違っている。おそらくこれも小泉総理が悪いのだろう。
 散歩になんか行きたくない。でも、お父さんのあの嫌な怒鳴り声はもっと聞きたくない。
 私はとうとうタロウの散歩に行く決意をした。
 「やいタロウ、散歩に行ってあげるよ。あれ? タロウ?」
 タロウが見当たらない。ぐるりと首を回してタロウを探すけれども、あの可愛くて憎たらしいタロウの姿がない。タロウや、タロウや、どこ行った?
 「お姉ちゃん、タロウはどこ行ったの?」
 お姉ちゃんは、相変わらず半笑いを浮かべてテレビ画面を見ながら、コタツの天板を右手の人差し指でコツコツと叩く。私はコタツ布団をぴらっとめくって中を覗き込んだ。
 「タロウ、こんなところに居たの~?」
 タロウは、ちっちゃくうずくまって、コタツの中に居た。
 なんだ、十分に幸せそうじゃないか。こいつはきっと散歩になんか行きたくないんじゃないのか。無理やり連れて行くのもいかがなものだろう。
 すると突然、コタツの向こう側が開かれて、お姉ちゃんの顔がぬっと出てきた。
 「タロウ! 散歩! 散歩行くよ! モトコが連れて行ってくれるよ!」
 その声を聞いたタロウは、耳をピクンと動かして、鉄砲玉のような勢いでコタツの中から飛び出した。お姉ちゃん、余計なこと言わなくていいのに。コタツの中という楽園にいればタロウは幸せだったに違いないのに。そして私も幸せだったに違いないのに。
 タロウは、目をらんらんと光らせ、私を見やったり、尻尾を振ったり、ちょこまかと走り回ったり、わんと言ってみたり、大変忙しそうである。これだけで十分な運動になっているような気がする。しかし、いったん散歩に期待を膨らませたタロウを捨て置くのはあまりに酷だ。私はそんな残酷な人間にはなれない。そのくらい残酷になれれば、私もいくらか生きるのが楽になるのかもしれない。お姉ちゃんみたいに。
 私は渋々とコタツの中から身体を出し、「よっこらしょ」と立ち上がってタンスのところに行き、抽斗からリードを取り出す。そして、嬉々として飛び跳ねるタロウを押さえ込み、そのリードを首輪に取り付けた。
 玄関で、「行ってきま~す!」と私はやや声を張った。しかし家族の誰も「行ってらっしゃい」を言ってくれない。なんて薄情な家族だろう。私は振り返ることなく玄関のドアを開けて外に出た。
 
 寒すぎる。そういえばもう十二月だ。雪が降ってもおかしくない。しかも午後十一時を過ぎている。私みたいな高校一年生の魅力的な女の子が一人で外出していい時間じゃあない。淫らな欲望に頭を支配された変質者が物陰から躍り出てこないとも限らない。お父さんは、私のことが心配じゃないのだろうか。
 お父さんはいつも「タロウがいるから一人でも大丈夫だろう」って言うけど、こんなちっこい犬が何ほどのものだろう。大の男に襲われたらキック一発でノックアウトされてしまうに違いない。あるいは私を見捨てて逃げるかもしれない。理性のない動物なんて、結局のところそんなものだろう。タロウは、そんな私の不安な気持ちなんてつゆ知らず、気ままに道端の名も知れぬ草花の匂いを嗅ぎまわっている。タロウは、気楽で羨ましいな。悩みなんてないんだろうな。私は、犬に生まれればどんなに幸せだったのかな。そんな考えても仕方のないことを頭の中で巡らせながら、元気な足取りのタロウについて行く。
 何となく空を見上げてみると、まん丸い月が、雲のすき間で光っている。月の光よりも、道端の街灯の冷たい光の方が明るいことに、違和感を覚える。この街の電灯を全て消してしまえば、月の光が、本当に明るくてこの世界を素敵に照らしてるって、気付けるのかもしれない。
 タロウが、電柱を見つけては嬉しそうにおしっこを引っ掛けている。なんだか滑稽だ。ナワバリなんて室内犬のタロウには関係ないのに、どうしてこんなに気にするんだろう。一気に出し切っちゃった方が気持ちいいのに。
 タロウは、おしっこをするのに飽きたのか、今度は道路わきの草むらの中に飛び込んだ。そしてくるくる回ったかと思うと、中腰になってぷるぷる震えだした。ああ大便だ。これがあるから犬の散歩は嫌なんだよなあ。私はタロウの大便用のビニール袋を持っていたけど、「どうせ草むらだし、拾わなくてもいいか。肥料にもなるし」と思って、こんもりとした大便をほったらかしにすることに決めた。
 「ほらタロウ、行くよ。早く来い」
 私はリードを引っ張って、早くこの場所から立ち去ろうとする。そうすれば私が大便をほったらかしにしたことなんて、神様にしかわからない。でも、私が死んで神様の審判を受けるときに、この悪行を見せられたら、恥ずかしいなあ。
 町内を20分くらい歩いて足が疲れてきた私は、もうこのへんで終わりでいいんじゃないかなと思って、タロウに訊いてみた。
 「ねえタロウ、もう帰ろうか?」
 タロウは私の言葉に何の反応も見せず、道端の草の匂いをかいでいる。
 「異議なしってことだね、その沈黙は」
 私はタロウが同意したとみなして、家に帰ることにした。

 暗い路地を歩いていると、ふわっとした暖かい匂いが漂ってきた。これは即席ラーメンの匂いだ。夜食を作っている家があるらしい。どうやら左手の平凡な一軒家からその匂いは放出されているようだった。台所と思しき部屋と、二階の部屋の窓が、冷たい暗闇の中で煌々と光っている。
 私は、受験生の息子のために夜食をこしらえるお母さんの姿を想像した。即席ラーメンの載ったお盆を両手で持っているお母さんが、こぼれないように、一歩一歩慎重に階段をのぼっていくところを想像した。
 そうしたら、心がきゅうっと絞られるような感じがして、ふわふわした暖かいものが体中に広がって、あらゆる細胞に染み込んでいった。私の身体は、柔らかく暖かいもので満たされていた。じわっと目から涙が出てきて、視界がぼやける。脳みそが心地よく溶けていくみたいな感覚がする。
 私は、世界中の全てのものが、いとおしくてたまらなくなった。世界中の全ての人が、幸せになって欲しいと心から思った。私がたとえ誰かに憎まれたり、恨まれたとしても、それはきっと私が悪いのだ。その人は幸せになるべきなのだ。幸せになって欲しい。幸せになって欲しい。

 自宅のあるマンションに帰ってきた私は、階段をのぼり、タロウと一緒に、我が家に通じるドアへと向かう。
 タロウは私を引っ張るようにして、共用の廊下を走る。私は、私を心から愛してくれる、頼もしくて優しい男の人に手を引かれているような気がした。私は、タロウの小さな後ろ姿に向かって言った。
 「タロウ、私、タロウに幸せになって欲しい。この世に生まれてよかったって、思って欲しい。私と会えてよかった、って思って欲しい」
 タロウは、相変わらず私のことを無視して、とっとこ突っ走る。私はタロウに嫌われているのかしら。でもそれは当たり前だ。私はいつも嫌々世話をしているのだから。
 「私ね、タロウに会えてよかった。タロウ、私、タロウに会えてすごく幸せだよ」
 私の声は届かないかもしれない。私の気持ちは届かないかもしれない。けれど、届かなくてもいい。そう思った。きっとみんな幸せになるんだ。なって欲しい。私は、これからきっと楽しいことが沢山あるはずの、我が家のとびらを開けて、やや声を張った。
 「ただいま~!」

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