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初老の夫婦、初めてモーニング娘。のコンサートへ行く

まえがき

 この9000字ちょっとの小説は、15年くらい前に書いたものに加筆修正したものです。ほぼフィクションであり、初老の夫婦は実在しません。ウェブで読むにはやや長いですが、もしよろしかったらお読みください。

初老の夫婦、初めてモーニング娘。のコンサートへ行く

 「モーニング娘のコンサート、行きませんか?」
 唐突に佐々木が言った。モーニング娘だって? 俺が? なに? モーニング? 笑わすな、阿呆。俺はいぶかみながら、佐々木を見やった。佐々木はどんどん話す。
 「いや~、知り合いの関係者筋からチケットを頂いたんですけどねえ、あいにく僕は、ちょっと、公演の日は仕事が入ってしまいましてね。のっぴきならないんですよ。木下さん、来週の日曜、ヒマでしょう? ペアチケットなんで、奥さんと一緒にどうですか。たまには、こういうのもよろしいでしょう、ゆずりますよ、タダで」
 ヒマでしょう?とはどういう了見だ、失礼なやつだ。事実、ヒマなんだけどな。くそう。何でヒマなんだ、俺。ちくしょう。
 それにしても、ヨウコと一緒に、モーニング娘とやらのコンサートか。うわあ。想像しただけで、むずがゆくなったよ体中が。かゆい、かゆい。すごく不自然。人間的でない。文化的でもない。たまには、たまには、か。いいのかな、たまには。こういうのも。モーニング娘とやらはよく知らんけれど、若い娘っ子を見るのも、目の保養になるのかもしれん。しかしヨウコと一緒というのはちょっと嫌だな、気恥ずかしいな。でもまあいいか、たまには、たまには。
 「おう、佐々木、ありがとう。行かせてもらうよ、チケット代はいいのかね?」
 「もともとタダでもらったんで、いいですよお金は。でも実はこのチケット、プレミアものでしてね、だいぶ高騰してるみたいです。一枚五万くらいで取引されてるようですよ」
 「五万だって? 冗談がうまいね、どうも。そんな言わんでも充分感謝しておりますよ、佐々木くん」
 「いやいや、本当ですよ。五万の価値があるんですよ、そのチケット。誰だったかな、そうそう、チャーミーです、チャーミーの卒業コンサートなんですよ。いやほんと、感謝してほしいですよ、五万で売れるところを、ただで差し上げるんですから。あ、ちょっといやらしいですかね、こういう言い方は。あは」
 佐々木は、あは、あは、あはは、と笑いながら、ゆっくりと自分のデスクに戻っていく。
 俺の目の前のデスクの上に、二枚のチケット。
 『モーニング娘。春のツアーでドスコイ祭りで張り切りトルストイ』という文字が書かれている。さらに集合写真が印刷されていて、モーニング娘のメンバー十一人が整ったスマイルを浮かべている。こりゃ営業スマイルってやつだな。にっこり。
 チャーミーって言ってたな、佐々木の奴は。チャーミーって誰だよ。わからん、皆目わからん。チャーミーグリーン。それは知っている。チャーミーグリーンを使うとー手をつなぎたくなーるうーっていうCMが昔あった。そこからとったのか。じゃあこの緑色の服、グリーン、チャーミーグリーン色の服を着てるのが、そのチャーミーとかいう女子であるわけか。そうかそうか、この女子が、来週の日曜、晴れ晴れ、卒業の日を迎えると。めでたや、めでたや。何にしろ、めでたい。卒業は、めでたいのだ。異論をさしはさむ余地、これ皆無である。うきうきする気持ちを宥めながら思う。俺は、大人。そう、大人だから。冷ややかに、見るかね、冷ややかに。モーニング娘なんて、喜んで見たらいけない。阿呆たちが馬鹿みたいに踊っておる、みたいなニュアンス、これを堅持して望もうじゃあないか。

 日曜日がきた。休日である。コンサートの日。我が家で、ヨウコがぐずぐずしている。「ぐずぐずするな! さっさとしろ! 何やっていやがる! モーニング娘のコンサートが始まっちまうぞ!」などと言いたい気持ちを抑える。俺は大人だから。大の大人なんだから。
 「ヨウコ、まだですか。まだですか。そろそろ行かない?」
 鏡台の前に座っているヨウコは、毛づくろいをしたり、水か何かを顔にぶちまけたり、顔を自分でひっぱたいたりしていて、きりがない。
 「ごめんなさい、あなた。もうすぐですよ。――はい。できた。できました。完了です。バッチリですわ。そろそろ行きましょうか」
 「よし、よし、行こう。モーニング娘とやらを、見に行こう」
 ヨウコは俺を見て、くすくす笑って、「あらまあ、張り切っちゃって。助平でいらっしゃるのね」と言った。
 しまった。迂闊だ。うかつな奴だ、俺は。つい張り切ってしまった。あかん。あかんで。
 「何を言うか。俺は、立派な大人だぞ。お前という素敵なワイフもいるのだぞ。助平だって? そんなこと言われるなんて、じつに遺憾だぞ。撤回してくれ」
 「ごめんなさい、うふ。あなたは大人ですものね、うふふ」
 ヨウコは、しなやかに笑った。しなやかで、少し綺麗だったので、俺はちょっとぼんやりしてしまった。
 ぼんやり、している場合ではない。モーニング娘のコンサート、いざ行かん。何しろ、五万だ、五万、無駄にしてはいけない。
 「五万だぞ、五万。二人合わせたら十万だ。大変な額だ。行こうぞ、行こうぞ。無駄になっちゃうからさ」
 俺たち夫婦は、いそいそしながら、コンサート会場に向かった。

 会場前の広場は人がごった返している。いるなあ、人が。うじゃうじゃいるなあ。目が回りそうだよ、目が。
 「ヨウコ、目が回りそうだよ、目が。人が、うじゃうじゃいるね」
 「そうですね、でも、そりゃそうですよ。あの有名なモーニング娘さんのコンサートですからね。そりゃ、沢山いらっしゃいますよ」
 「時間はだいじょうぶかな? まだ、始まらないのかな?」
 ヨウコはちっちゃくて小綺麗な腕時計に目を落として言う。
 「まだ、だいじょうぶですよ。開演まで、あと三十分ほどありますから、まだゆっくりできます。すこし、休みませんか? どこか座れるところはないかしら」
 俺たちは、会場の前のスペースで、腰を下ろせそうなところを探した。
 「あそこに具合のいい石があるじゃないか。あそこに座ろうよ」
 俺たち二人は、具合のいい石に座って、一息ついた。煙草でも吸うか、煙草。セブンスターのソフトボックスから一本取り出して、口にくわえる。百円ライターで火を付けて、吸う。すぱー。すぱー。煙の中で、人がうじゃうじゃ、うごめいているよ。いるなあ、人が。いっぱい。
 「いるなあ、人が。うじゃうじゃ。いろんな人がいるものだね」
 「ええ。皆さん、大好きなんですね、モーニング娘さんが。ほら、あの方なんて、ハチマキをして、気合が入っていますよ。うふふ」
 「うわあ、あそこを見てごらん。モーニング娘の写真を、体中にくっつけている人がいるよ。恥ずかしくないのかな。すごく勇気のある人だな。あ、おかしな踊りをおどっている人もいる。あれ、いったい何ていう踊りだろうね。ひどく珍妙な踊りだけれども、滑稽でおもしろいね。いろいろな人がいるものだね」
 「まるでお祭りみたいですわね。みなさん、楽しそうな、幸せそうな顔をしているから、私まで、ちょっと楽しく、幸せになってきましたよ」
 おや、ヨウコったら、うきうきしているのか。ヨウコ、いけないよ。君は大人なんだから、もっと落ちついて、子供をあやすような心持ちで、行かなければならないよ。俺は、阿呆を見にきた、阿呆が踊って歌っておる、めでた、めでたや、ちょっと、かわいいかもね、そんな感じで、そんな感じで行くのだ。

 チケットが切られて、会場の中へ「いざ」って言って、入った。相変わらず、人がうじゃうじゃしている。気分が悪くなってきた。会場の中は、空気が薄いね、どうも。みんな、ちゃんと呼吸できているのかな。すーはー、すーはー。
 「おいヨウコ、呼吸はできているか。だいじょうぶか。苦しくなったら言うんだぞ。無理はするなよ。こんなところで死んじゃいけない。無理だけはするなよ」
 「ええ、だいじょうぶですよ。あなたは、だいじょうぶですか。あなたも、無理だけはしないでくださいよ」
 ちょっと微笑んで、ヨウコが言った。俺はなんだかキュンとなった。ああ、胸がくるしい。息が苦しい。あれ、やはり空気が薄いのかな、吸えない。空気が吸えない。やばい、俺はここで、こんなところで死ぬのか。いけない。こんなところで死んではいけない。末代までの恥だ。子供はまだいないけれども。
 「木下さん、お亡くなりになったらしいわね」「聞くところによると、モーニング娘のコンサート会場で亡くなったらしいわよ」「あら、そうなの、あらあら、助平でいらっしゃるのね、いい年をして、モーニング娘だなんて、うふふ」「うふふ、あら、笑ってはいけないわ、でも、うふふ、いけない、いけない、うふふ」こんなことを、俺の死後に言われていたら、俺は自殺しちゃうだろう。死後に、自殺。二重の死だ。暗黒だ。

 はあはあ、はあはあ、息をせねば、息を。ここで死ぬわけにはいかない。だいじょうぶか、俺。だいじょうぶか、俺。はあはあ、はあはあ。俺は壁際のベンチにへたり込んだ。ヨウコが俺の顔をのぞきこむ。
 「あなた、だいじょうぶですか。ひどく顔色が悪いですわよ。ドリンクでも買ってきましょうか?」
 「そうだね、ドリンクでも飲もうかな。はあはあ、うまく息ができない。でも、だいじょうぶ、はあはあ、だいじょうぶだよ、ドリンクを飲めば、きっとだいじょうぶだよ」
 ヨウコは会場内の売店まで走り、オレンジジュースを二缶、購入してベンチに戻ってきた。二缶で五百円だったらしい。高い。一本二五〇円も取りやがる。馬鹿にしている。足元を見られている。会場の外に出られないからと言って、法外な値段を吹っかけるとは、ふてえ野郎だ、なめやがって。俺は息ができないことなんか忘れて、公憤にうちふるえた。甘いオレンジジュースをごくごく飲んで、俺は言った。
 「一缶で二五〇円も取るなんて、人を馬鹿にしていやがる。腹が立つね。夢を見せるものじゃないのかね、コンサートってのはさ。そんな夢のようなパラダイスで、そうだよ、パラダイス銀河だよ、そこでね、こんなうす汚い金欲をまざまざと見せ付けてくるたあ、いったいどういう了見なんだい、俺は腹が立つよ」
 「二五〇円くらい、よろしいじゃありませんか、カリカリしたってしょうがないですよ。楽しいところでカリカリするなんて、馬鹿らしいじゃありませんか」
 「お前は、金を稼いでないから、そういうことを言えるんだ。俺が、必死に働いて稼いだ金だぞ。それを、二五〇円くらいなどと、よく言えたものだね、あきれるよ。俺は腹が立つよ、いやだ、いやだ、人間ってものはいやらしいものだ」
 ヨウコは、柔らかく笑って、「あらごめんなさい、さあ、どうです、息はできるようになりましたか? そろそろコンサートが始まりますよ。席に行きましょうよ」と言った。
 俺はカリカリして、肩をヤクザみたいにいからせて、風を切って歩いて、我らの席に向かった。息は、すっかりできるようになっていた。あの馬鹿高いオレンジジュースのおかげかもしれない。一缶二五〇円のオレンジジュースだなんて、人を馬鹿にしくさっている。ちくしょう。

 ヨウコと二人並んで、我らの席に座った。まだ始まらない。あれ? 舞台、どこ? 舞台はどこだ? 見えないぞ、ん? あれか、ずいぶん遠い。ひどく、遠いい。
 「遠いね。どうにも、遠いいじゃないか」
 「まあ、しょうがないですよ、ただでチケット頂いたんだし、あまり贅沢は言えませんよ。それにほら、双眼鏡もってきましたから、だいじょうぶですよ」
 近くで見たいものだ、どうせなら。双眼鏡でウォッチングだなんて、あまりにみっともないではないか。俺は人間だぞ、人間。なんで、人間が人間を見るのに、双眼鏡など使わねばならんのだ。馬鹿にしている。舞台に立っているモーニング娘とやらも双眼鏡を持っているなら、それはよしとしよう。トントンだ。互角。対等。それならいい。しかし、舞台上のひとが双眼鏡のぞくなんてことはありゃしないんだ。くそう。くやしいな。負けたよ、負け。どうせ俺は、愚民だよ、一般市民。みっともなくて、一般市民。双眼鏡かまえて貪欲に見るのだ。でもあれだ、そうだ、阿呆たちが踊っておる、こりゃ滑稽、めでた、めでたや、この気持ちを忘れるところでした。いけない、いけない。俺は大人なんでね、大の大人。おう、若い娘らが何やらやっとる、やっとる、そんな感じで行かなければ。

 会場内が急に暗転した。真っ暗である。停電か。停電なのか? 何が起きた? ついに、来たか。テポドンぶっ放しやがった! 北のやつら、とうとうプッツンいきやがった。大変だ。モーニング娘どころではない。何がパラダイスだ、何がパラダイス銀河だ、アンパラダイスだよ、今この時からアンパラダイスだよ、アンパラだよ、アンパラ、凄絶な戦争が始まるよ。地獄の黙示録。テポドンが、どこやらの原子力発電所に命中したんだ。それで、停電。いやだ、いやだ、戦争だ、ウォーだ、混沌、混乱、暴動、略奪、怖いぞ、助けてくれ、一体どうしたらいいんだ。俺は体中がガクガク震えて、となりのヨウコに言った。
 「ヨウコ、逃げよう! 早くここから逃げ出そう。大変なことになった。あいつら、とうとうテポドンぶっ放しやがった、戦争が始まったぞ!」
 しかしヨウコは、しごく冷静である。落ち着いている。大したタマだ、女は度胸。
 「あなたったら、何を言ってるんですか。ほら、もうすぐ始まりますよ。ほら、出てきました。モーニング娘さんたち、現れましたよ、ご覧なさいな」
 舞台に、明かりが灯っている。よかった、テポドンは落ちてなかった。ウォーは、勃発しておらん。よかった。にわかに、周りのひとびとが、一斉に立ち上がった。とんでもない歓声が上がる。俺はあわてた。今度はなんだ、なぜ、立つんだ。見えないではないか。モーニング娘を、俺に見せろ。ええい、見せろと言うんだ。見えない、見えないぞ。見たいんだ俺は。五万だぞ、五万、なにさらしやがる、五万だぞ、馬鹿野郎。ぶっ殺してやる。
 俺は立った。ヨウコも立った。みんなが立った。きっとクララも立った。
 爆音が俺の耳を破壊しそうである。鼓膜がぶるんぶるんしている。
 「あーなーたー恋愛大臣ーならー世界中を愛でー埋ーめつくしてイエス、イエス、アイムインラーブ」
 若い娘っ子らが歌っておる。めでた、めでたや。阿呆たちが踊って歌って、万々歳だ。俺は、舞台の上のモーニング娘を見つめてぼーっとしながら突っ立っていた。ひとりで、突っ立っていた。
 「あーなーたーれーんあいだいじーんならー」と俺はためしに、一緒に唄ってみた。恋愛大臣、恋愛大臣か。俺、恋愛大臣かもしれん、すでにして、恋愛大臣かもしれん。愛、振りまきたおしておるのかもしれん。
 しかし、遠いなあ、遠いよ、見えんよ、ぜんぜん見えんよ。五万だぞ、五万。五万なのに見えないってのは、一体どういうことなのか。あ、そうだ、双眼鏡があった。「ヨウコ、双眼鏡貸してくれんか」って話しかけても、ヨウコは舞台を見つめたまま、俺をシカトである。シカッティングである。しょうがないから、ヨウコのわき腹を突っついて、手で双眼鏡の形をつくって、目に当てるジェスチャーをした。便利だな、ジェスチャー、これだよ。すべての言語はジェスチャーに敗北するのだ。
 ヨウコはやっとこさ俺に気付いて双眼鏡をわたしてくれた。偉大な言語、ジェスチャー、ボディーランゲージ。イエス、恋愛大臣。俺が恋愛大臣だから、愛、振りまくから、これ、通じるの。通じちゃうの。愛だよ、愛。あなどれぬ、モーニング娘! 阿呆たちのくせに、なかなかやるな。くそう、負けた。どうせ俺は平民、愚民だよ、悪かった。
 俺は双眼鏡をかまえて、舞台を眺める。おお、見える、見えるぞ。こうじゃなくっちゃあ、いけない。でかいな! でけえ! 手が届きそうだ。まるで目の前にいるようだ。俺はちょっと右手を伸ばしてみた。一人のモーニング娘の、おっぱいを揉んでみる。手は空をきった。俺はぼーっと突っ立って、左手で双眼鏡をかまえたまま、さらに右手を伸ばして、おっぱいを、もみもみ、もみもみ。あ! 感触があった! 俺は今、揉んでいる、誰かは知らぬが、モーニング娘のおっぱいを! さわさわ。わさわさ。しまった! これは勘違いだ、大変なことをしでかしちゃった。俺は、前の席の女の子の髪の毛を、わさわさやっていたのである。
 「あっ」と俺が言うと、前の席の女の子は、俺のほうに振り向いた。二人は薄闇の中、しばし見つめあう。俺は恋愛大臣、愛、振りまくから。愛だよ、愛、これも愛。わかってくれるよね、これ、愛なのだよ。
 俺は、至上で無欠の言語であるジェスチャーを用いて、謝った。チョップをするみたいに手を振り上げて、謝意を表明いたした。俺によって頭をワシづかみにされ、せっせと一生懸命ととのえたであろう綺麗な髪の毛がぐしゃぐしゃになったにもかかわらず、前の席の女の子は笑顔を浮かべて許してくれて、また前に向き直り、ペンライトを振ってモーニング娘の応援をはじめた。
 俺、恋愛大臣だから、愛、振りまくから。通じるの、これ、通じちゃうの。やっぱり愛だね、愛。言葉はいらないよ。ジェスチャーがあればいいの。そういうもんなの。俺は心底、ほっとした。そして俺はぼんやり、舞台の上で踊るモーニング娘を眺めた。安物の双眼鏡を通して。

 MCや、ちょっとしたコントみたいなものを挟みつつ、コンサートは淀みなく進行する。慣れたもんだね、立派だ。すごい。努力したんだろうなあ。努力、大事だよなあ。「阿呆たちが踊っておる、あはは、歌っているよ、面白いね」なんて言うのは、とんでもなく非道なことなのかもしれない。おっといけない。大人だから、俺は熱くなっちゃだめ。恥ずかしいよ。落ち着いて、落ち着いて。
 そういえば佐々木は、チャーミーが卒業だって言ってたけど、チャーミーってどれだ? わからん。皆目わからん。見分けがつかん。みんな同じように見えるのだが、これはいったいどうしたことか。MCにおいて自己紹介はあった。たしかに、それはあった。しかし、一度で覚えられるわけがない。わからん。わからぬ。皆目わからぬ。フーイズチャーミー? グリーンだ、そうだ、チャーミーグリーンだ、思い出した。手をつなぎたくなーるーんだ、チャーミーグリーンを使うと。緑。緑色の人を探せばよいのだ。かんたん、かんたん、楽勝。あれ? おらぬ。誰も緑の衣装きておらん。みんな、金色の衣装を身にまとっている。これじゃ、わからんじゃないか。緑を着ろ。チャーミーグリーンなんだろうが。いつでも緑を着ろというんだ。わかりゃしないじゃないか。

 ――終わった。あっという間だった。彼女たち、歌いきったし、踊りきりました。若いのによくがんばったね。と思ったら、アンコールが始まった。
 「りーかちゃん! りーかちゃん! りーかちゃん!」
 おいおい、それがアンコールなのか? 通じませんよ。「アンコール!」これじゃないと。意味がわからないじゃないか。名前だけ呼ばれても、困るじゃないか。しかしとりあえず俺も「りーかちゃん!」と叫んでみる。だんだん声を出すのが気持ちよくなってくる。
 どうやらアンコールの意が通じたらしく、また舞台にモーニング娘が出てきた。以心伝心ってやつだ。俺、恋愛大臣だから、たぶん俺の愛がふりまかれて、それで通じたのだ。
 そして突然、頭のなかのもやがパーッと晴れていく。
 りかちゃんイコール、チャーミーグリーンではないのか。そうかそうか、チャーミーはりかちゃんであって、りかちゃんはチャーミーなのである。それで、舞台の真ん中で、まさに今、花束を受け取っているのが、りかちゃんであってチャーミーであってグリーンであって手をつなぎたくなーるーの人であるのだ。わかった。わかっちゃった。最後の最後で、俺わかっちゃった。
 俺は双眼鏡を両手で構えて、りかちゃんイコールチャーミーを眺めた。りかちゃんイコールチャーミーは、モーニング娘ひとりひとりと抱擁して、言葉を掛け合い、腰がくだけたようになったり、ふらふらになったりしている。その目には、涙があふれていた。涙。嗚呼。涙。なみだ、ひさしぶりに見たな、なみだ。俺、最後に人のなみだを見たのはいつだったかな。思い出せない。何年前かなあ。親父が死んだとき、お袋が泣いてるのを見たのが最後かもしれん。なかなか、めずらしいもんだ、なみだ。なみだか。努力、努力、努力、そして、卒業、めでた、めでたや。阿呆たちが、踊っているよ。ははは。滑稽、滑稽。なみだを流しながら、涙声で、喉をつまらせながら、歌っているよ。りかちゃんイコールチャーミーが、卒業で、嬉しいのか、哀しいのか、さびしいのか、わからないけれど、目から涙を流しているよ。すさまじい、この悲壮ともいえる声援の中で、顔をぐしゃぐしゃにして、踊って、歌っているよ。俺、恋愛大臣だから、愛、振りまくの。愛、振りまかれた。いろんなところに。得体の知れぬさまざまな愛が。俺は双眼鏡をのぞいたまま、泣いた。なんだろう、これは。なみだか。久しぶりだな、なみだ。俺、大人なのに。そう、大の大人なのに。でも俺、恋愛大臣だから、愛、振りまくの。振りまいちゃうの。

 「――よかったですね、モーニング娘さん。私、ちょっと涙ぐんでしまいましたわ」
 興奮さめやらぬ会場を後にして、俺とヨウコは、ならんで歩いている。すっかり、夜。
 「馬鹿だなあ、いかんよ、いかん、大人なんだから、いかんよ、冷静に見ないとね。泣いたりするなんて、恥ずかしいよ、みっともないよ」
 ヨウコは、くすって笑って、ちらと俺を見やり、「あらあなた、最後、チャーミーさんが泣いてるとき、つられて泣いてらっしゃいませんでした?」と言った。
 しまった。迂闊だ。うかつな奴。それは俺。見られた。見られちゃった。大の大人なのに、泣いちゃったんだ、俺。馬鹿野郎、なんてこった。くそう。負けだ。俺の負けだ。平民だからか。愚民だからか。ちくしょう。
 「泣いてないよ、馬鹿を言うな。見まちがいだろう。ははは」
 強がって俺が言うと、ヨウコは「うふふ」って、しなやかに笑った。ヨウコが少し綺麗に、控えめに笑うので、俺は、ぼんやりしちゃった。胸がキュンとなって、少し息が苦しい。夜の冷ややかな空気を、胸一杯に吸い込んで、吐き出してみた。こころが、綺麗に澄んでいくような気がした。俺、大人なんだよなあ。大の大人なんだけど。
 「俺、恋愛大臣だからさ、愛、ふりまくの。ふりまいちゃうの」
 ヨウコは、きょとんとしていた。
 俺は、やにわにヨウコの左手をにぎった。そして「チャーミーグリーンを使うとー手をつなぎたくなーるー」と心の中で口ずさみながら、ヨウコと二人ならんで、家に向かって歩いていった。

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